寒い夜だから
夏が好きだ。寒い冬は嫌いだ。
だから、今日みたいな寒い日は、とても嫌いだ。とっても嫌い。
ダウンジャケットのボタンを締めて、カシミア10%のマフラーを巻いて、駅から家へ急ぐ。こういう時に「駅チカに住めばよかった」なんてことを思う。先日、友達が蒲田に住み始めたと聞いて会社から遠いのに「なんで?」って聞いたら「駅直結のマンションだったから」と言っていた。当時は「駅直結ってそんなにいいものかな」と思っていたけれど、いまはわかる。とてもわかる。
そういえば、満員電車のおじさんのぬくもりが暖かいという話を聞いたけれど、こんなに寒いと、その気持もわかる。寒い時の方がデートはうまくいきやすいと聞いたことがあるけれど、本当かもしれない。
でも寒いのは嫌だ。
帰ったら湯船にお湯を入れよう、と思う。暖房も入れよう。暖かいコーンポタージュスープも飲もう。明日の女子会のお店は鍋にしようかな。
そして暖かい布団で眠ろう。
そんなシーンを想像したら幸せになってきた。想像で暖かくなる私はマッチ売の少女。
あれ、これって寒さのおかげ?お外が寒いからこそ、こんな妄想で暖まれる?
そう考えると寒いのも悪くないのかもな、と思ったりして。でも、早く家に帰りたい。少し駆け足になった。おでんでもいいな!
孤独を紛らわせるために
風邪を引いた。その時に人は初めて孤独を痛感する。
普段は1人で気楽に生きる人も、風邪になった時に、1人の限界を知る。自分が倒れると、誰も自分を助けてくれないのだ、という事実に。リンゴを剥いてくれる人も風邪薬を戸棚から取ってくれる人もいない。自分で戦うしかない。38度の熱とともに。
そして、私は気づく。
「1人は寂しい」
1人で暮らすこと。それは、女性にとって治安という意味でも不安だ。1階は避けて部屋を借りたけれど、5階に住む友人はベランダに侵入者が入った。非常階段から侵入したのだ。オートロックでも他の人について入られれば意味がない。
1人は寂しい。「咳をしても1人」と高校で習った俳句を痛感するとともに。
風邪が治っても、「1人は寂しい」という思いがつきまとう。
特にこんな寒い日は特に。
ペットを買おうか、と思ったけれど、うちのマンションはペットがNGだ。
とはいえ、恋人は頑張ってもできるものではない。
あ、そうだ。
私は気づく。「自分が1人じゃない」とわかれば安心できる。
そして私は、レーダー動作感知装置「RANGE-R」を買った。FBIなどが使っている機械で、壁を通じてそこに人のいるかどうかがわかるレーダーだ。
これで私は隣人がいるかどうかを知ることができるようになった。そうして、私は寂しさを紛らわせることができた。夜に隣の人が帰ってくると安心する。朝に、隣人が会社に出ると寂しい。
地震があって不安でも、隣に人がいると思えば安心できる。夜中3時に悪夢にうなされておきてもと隣人がいると思えば安心できる。
もし何かあっても、1メートル隣には、誰かがいる。壁を挟んでだけれど。性別も年齢も知らないけれど。隣人だけれど。
※もちろんフィクションですが起こり得るちょっとしたホラーとして書いてみました
私は指輪を売っている
伊勢丹で指輪を売っている。ネックレスやピアスも売っているが、人気なのは指輪だ。数万円から10万円くらいのもの。伊勢丹でいえば、少し安めの価格帯かもしれない。
この仕事をしていると思うことがある。
「この仕事って他の人より幸せになるんだろうか、それとも不幸せになるんだろうか」
この仕事は、他の人の幸せを見る仕事だ。幸せそうなカップルと向き合い、幸せそうな人たちと話をする。いくつも指輪を付け替え、女性は彼氏に「どうかな」と聞く。私も「どうかな」と聞かれて、「お似合いですよ」と答える。その髪型に、あるいは、お客様の雰囲気にお似合いですよ、と。
私は、そうやって女性たちの幸せを受け止める。幸せをもらう。でも、同時に、なんだか私の幸せも吸い取られる気分になる。
「私には、こうやって指輪を買ってくれる人がいない」と。
人と比べたがる人には向いていない仕事だと思う。実際に職場でそういう人がいるが不幸せだ。彼女は、彼氏に、高価な貴金属をねだってしまう。自分が売っている商品よりも高いものを恋人に買ってもらう。そうして、彼女は仕事中に「私はこの人達の指輪よりも良いものをもらっている」と自分を納得させている。でも、そんな恋愛は結局続かない。
友達いわく「毎日パソコンと向き合うくらいなら幸せなカップルと向き合っている方がいいよ」なんて言うけど、本当にそうかな、と思う。人の幸せを見るくらいならパソコンを眺めていた方が心は穏やかなんじゃないかって。
でも、最近、気づいた。ここを訪れるのは幸せなカップルだけじゃない。男性が1人でくることも多い。彼らは恋人のプレゼントを探しに来る。彼らの顔は幸せな顔じゃない。真剣な顔だ。
どういうものだったら恋人は喜んでくれるんだろう。どれが似合うんだろう。と必死に探す。
その顔を見ていると、まるでスポーツ選手の試合を見ているような気分になる。それはそうだろう。安くない金額を年に1度か2度のイベントに使うのだ。誰でも真剣になる。
そんな顔を見ていると「この仕事も悪くないな」と思うのだ。
電車でポッキー
電車に乗っていた。昼だったので、そこまで混んでいない。電車というのは朝の通勤タイムと夜に帰宅時間に混むもので、他は空いているのだ。
人はまばら。そこで女性が1人、窓側に立っていた。大学生くらいだろうか。ジーンズに黒のダウン。黒髪のボブ。
その人が、おもむろにカバンからポッキーを出して食べ始めた。
昨年末は「電車内でメイクは駄目」といった広告が物議を醸し出していた。しかし、食事に関してはどうだろうか。
メイクと同じ理屈でいえば「電車に乗っているのはあなただけじゃないので、他の人に配慮した行動を」ということだろうから、ポッキーを食べるのも控えた方がいいのだろう。
しかし、電車でわざわざお菓子を食べるということは、よっぽどお腹が空いていたんだろう。もしかしたらこれからマラソンや試験があって、カロリーを確保しておかないといけないのかもしれない。
もしこれが唐揚げ弁当などの匂いが強烈なものなら、顔をしかめたかもしれないが、ポッキーなんてかわいいものだ。お菓子のクズをこぼしてスーツに付けるのは避けていただきたいが。
お腹がどうしても空いた時に電車内でこっそりポッキーを食べる自由くらいは今後も持ち続ける世界であって欲しいなと思った。自由の名のもとに多くの血が流されたフランス革命を我々はいまいちど思い返さないといけない。自由は守り続けるものなのだ。
ポッキーゲームをし始めたら、チョップするけど。
走り続ける山手線
日曜日の昼下がり、無印良品に行こうと思い、渋谷から山手線に乗った。有楽町の無印に行く予定だったのだ。
気持ち良い日差しが降り注ぐ中を山手線は走る。僕はiPhoneでニュースを見る。ニュースを10記事ほど読んだ時に
- あれ
と思った。恵比寿駅に着いていない気がする。
渋谷の次は恵比寿だ。数分もあれば着くはず。しかし、かれこれ10分くらいは電車は走っているじゃないか。
窓の外を見ると品川のビルが目に見えてきた。
- あれ、この電車って快速だっけ?
と思うが、山手線に快速はない。
周りを見渡しても、誰も不思議と思ってないようだ。気になるが、しばらく乗り続ける。すると、浜松町、新橋、有楽町と予定していた有楽町も過ぎてしまった。
僕は思わず、座っている人に話しかけた。
- 電車おかしくないですか?
人は答えた。
「おかしくないですよ。この電車はもう駅には止まりませんよ」
その人が言うように、この電車はもう駅には止まらなかった。
東京駅を過ぎ、秋葉原を過ぎ、上野を過ぎ、そして新宿まで走った。そして渋谷まで戻ってきた。1時間は経っただろう。それでも、電車は止まらなかった。
その後も延々と電車は走り続けた。夜になり、翌朝になっても電車は走り続けた。
僕は疲れて床に座った。お腹が空いたけれど、何も食べなかった。ただ風景だけが変わっていった。
このままじゃ、バターになっちゃうな、と思った。
人は言った。
- 電車は光の速さで走っているから、あなたは年を取らないんですよ
そうか、と僕は納得する。だからお腹がすかないんだ。
そうすると、この電車は永遠に走り続けることになる。僕が死ぬまで、というわけでもない。僕は死なないのだから。
永遠に走り続ける、ということの永遠を想像しようとしてみた。自分の想像では「死ぬまで」が限界だった。さらにそれより先の無限に続く時間は、うまく想像できなかった。
永遠に走り続ける。僕はずっと山手線の中。電車はずっと走り続ける。
いつかバターになっちゃうな、と思った。
冬の朝から逃げ出したくて
低血圧の私にとって、冬の朝は地獄だ。目覚ましは2つかける。iPhoneと目覚まし時計だ。iPhoneでも時間は5つ設定する。7時、7時5分、7時10分、7時12分、7時15分。7時15分で私はやっと朝と気づく。サーキット音やチャイムやマリンバなどが演奏を奏でる。幸せな夢の時間もそこで終わり。極悪な現実が待っている。でも起きないとそれはそれで地獄だ、となんとか目を空ける。
しかし、ベッドから降りれない。ゴソゴソと布団の中で頭が覚醒するのを待つ。眠くてしょうがないが「寝たらもっと辛い」と思い込んで、なんとか意識を覚醒させようとする。上司に「寝坊したので遅刻します」というのは、寝坊よりも辛い。
携帯を見て、FacebookやInstagramにコメントがないかを見る。そして、ベッドの中で30分ほど、うだうだ。7時45分に目覚ましがなり、ようやく私はベッドから降りる。目をつむりながらパンをトースターに入れる。その間に顔を洗い、戻ってきたころにはパンが焼けている。半目のまま、それを食べて、コーヒーを無理やり口に入れる。もう一度ソファーで気絶する。目を覚まそうと、テレビをつけるがそれどころじゃない。米国の選挙や日本の事故よりも私は自分の眠気の方が事件で。それでもなんとか這いつくばりながらトイレに行く。その頃にはもう8時15分になっている。ようやくやっと目が空くようになってくる。
毎朝、とてもつらい。これからも毎日、こんな日々を繰り返すと考えると、吐き気がするほどだ。「死ぬと、早起きしなくてもいいよな」とさえ考えてしまう朝の辛さ。
こんな辛い日々を他の人たちはちゃんと過ごせているのが信じられない。会社にいくと、皆そんな辛い思いなんてしてないかのようなすました顔をしている。私もそうだけど、それでも私は午前中はぼーっとしている。ポンコツだ。もしかしたら、みんなはそんなに辛くなりのかもしれない。もしかしたら私は「眠い眠い秒」なのかな、と思って友人たちに聞くと、みんなも「朝は辛い」と言っているので、みんな辛いのだろう。
明日の朝がこんなにつらいことを想像すると、寝るのさえも億劫になる。神様も手違いをしてしまったんではなかろうか。こんなにつらい経験を人にさせるなんて、バランスがあっていない。どんな幸せなことがあっても、翌朝はこの地獄があるなんて。幸せは朝までしか続かないってことだ。
これは人が担う原罪ではないのか。生まれてきたことの罪を償っているのではなかろうか。
この朝の辛さを通じて、人は生きるということを学んでいくのではないか。自然と対峙するサーファーのように、私は朝の眠気と向き合うスリーパーである。
もし次に生まれ変わったら、朝、起きない人生がいいな。
寝たらそれまでの人生がいいな。
夢を見ながらこの世を去るって、なんだか素敵じゃない。
病気の人も健康な夢を見て、不幸な方も幸せな夢を見て、人を憎んでいる方も怒りのない夢を見て。夢を見ながらがいいな。
鬼のいない家
節分の時期はいつも憂鬱になる。うちには鬼をする夫がいないから。
私が鬼のお面をかぶってもいいけれど、そうすると娘が頼れる人がいなくなる。そんなトラウマになるようなことは経験させたくない。
クリスマスだとまだいい。サンタは姿をみせる必要がないから、私がプレゼントをおいても娘にはバレない。でも節分は姿を見せないといけない。うちには鬼になってくれるお父さんはいない。
ナマハゲみたいに、町内会のおじさんがうちにきてくれればいいのに。
でも今年はいつもと違う。タカシさんが「鬼をしてくれる」と言ってくれた。仕事帰りの疲れているところ、ありがたい。お陰様で、昨日の節分はうちに鬼がきた。
娘は泣きじゃくって私に飛びついてきたが、最後には一緒に豆を投げた。2人で鬼を退治することができた。
「これで福がくるね」と娘と言い合った。豆の掃除も2人でした。
そして、今日。
「今日は鬼がこないの?」と娘が言う。昨日、あんなに泣きじゃくっていたのに。
もしかして、私が鬼に持ってる好意が娘にも伝わったのかな。
「娘がまた鬼に会いたいって言ってるの。また来てくれない?」って言ったらタカシさんは何ていうかな。お面を外してきてほしいな。