マレーシアの空港で待ち合わせ
車の中で奴を待ちながら、考えていた。汗がじっとりとTシャツに染みる。
考えていたのは、「うまく殺せるだろうか」というよりも、「私はどう殺されるのか」ということだった。殺すのはうまくいくだろう。警戒心のない男を殺すことは造作ない。毒殺なんて小学生でもできる。
問題はその後だ。彼らは「そのまま金をやるから悠々自適に暮らせ」なんて言うけれど、そんなのは嘘だろう。依頼主を知った私は恐らく殺される。空港でやるからには防犯カメラにだって映るだろう。そんな人間を彼らがほったらかしにしておくわけがない。
でも、他に選択肢なんてなかった。私がこの話を受けなければ、私の家族は殺される。何より、この依頼を聞いてしまった以上、殺される。
私は奴を殺すしかないのだ。
しかし、私は100%殺される、ときまったわけではない。1%は「もしかしたら」と考えてしまう自分もいる。もしかしたら大金をもらって、そのまま田舎で暮らせるかも。だから、錯乱しないのだろう。もし100%殺されるなんてわかっていれば、私はこのミッションをうまく遂行できないだろう。1%の可能性にかけて、私は奴を殺す。
殺される奴もかわいそうだが、仕方ない。そういうものなんだ。
でも馬鹿らしい。マレーシアでは、こんなにのんきな人たちがいるのに、1人の男は殺されて、そいつを殺した女も殺されようとしている。私も、のんきにクエラピスでも食べる人生を歩みたかった。
笑いを意味するLOLをあしらったTシャツを着たのも、ちょっとした皮肉だ。防犯カメラに映った時に、私は世界を嘲笑おう。こんな変な世の中で真面目に生きるやつらを笑い飛ばしてやろう。
手が震える。汗が冷たい。
Tシャツで汗を拭う。男が到着するまであと30分。
ちょこっと
「14日、仕事帰りに家に寄るね」とミサは言う。
ああ、14日。バレンタインのチョコをくれるのか、と僕は思う。
14日、仕事から帰って、家でパソコンをしているとインターホンが鳴る。ミサだ。「チョコなんだろうけど、チョコチョコ言うのもあれだから、ちょっとだけチョコなのかな、という顔」で迎え入れる。
彼女が右手に持つ紙袋が気になる。ファッションブランドものの紙袋だ。すると手作りかな、と考える。
部屋にあがり、少し話をする。「チョコはまだかな。まだチョコかな」と少しそわそわしながら、話をする。そして、ミサは言う。
「いいものもってきたよ。あげるー。ハッピーバレンタイン」
袋を空けると、ボックスがあり、ボックスを明けると彼女の手作りが入っていた。ただ、それはチョコではなくアップルパイだった。
「あなた甘いものあまり好きじゃないでしょ。だからアップルパイにしたけどどうかな」
「気が効くね〜。ありがとう。一緒に食べる?」
「いや。私は味見でたっぷり食べたからいいや。徹夜になっちゃったよ。疲れたからかえるね」
ミサが帰ってから、ソファーに座って考えた。僕のことを考えてチョコを避けてくれたなんて、素敵な子だな、と思う。
同時に「でも、違うんだ。バレンタインはチョコがほしいんだよ。たとえ甘いものが好きじゃなくても」という独り言をつぶやく。バレンタインは、チョコが食べたいんだよ。
コーヒーを入れてアップルパイをチンする。すると、バニラエッセンスの香りが部屋に立ち込めた。いい匂いだな。
そして、頬張る。
「あ」
アップルパイの中に、小さなチョコが入っている。マックスブレナーのパイのように。
なんだよ。俺の彼女は気が利く上にサプライズ好きかよ。甘い上に苦いって、まさにチョコだな。
思わずパイを全部平らげた。ハッピーバレンタイン。
泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます
あるドラマを見ていたら、「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」というセリフがあった。
いい言葉だな、とは思いつつも、ドラマの続きがあったので、その言葉を頭の隅においていた。ある時にバスに乗っていて、このセリフを思い出した。
- 脚本家は、どのような思いでこのセリフを書いたのだろうか
と思った。
このドラマの脚本家は「坂元裕二」さん。東京ラブストーリーの脚本家だ。
彼は、泣きながらご飯を食べたことがあろうのだろうか。想像で書いたのだろうか。わからない。ただ、いずれにせよ何かしらの意思があって記載された言葉だろう。
泣きながらご飯を食べるというのはどういうシチュエーションだろう、と考える。
単なる悲しい時ではない。なぜなら悲しい時は食欲もないからだ。ご飯は食べられない。それがこのセリフの妙味だろう。
ご飯の味で思い出が蘇って泣くということはあるかもしれない。母親が作ってくれたおにぎりのような。でもこれとは少し文脈が違う。
自分はいつ泣きながらご飯を食べただろうか。バスの窓の外を眺めながら思い返した。
5年前だな、と思った。よくある話だ。1つの恋愛が終わった時だ。
ビストロに僕は入った。食欲はないけれど、お酒は飲みたかった。せっかくなのでつまみも頼む。
ビールを飲んで、一息を着くと、飲み干したビールが目から溢れるように涙が出てきた。止めれなかった。僕は諦めて、涙が出ていないふりをした。そして、味のしないソーセージを口に放り込んだ。全然味のしないソーセージだった。
ああ、そうだ。
泣きながらご飯を食べるということは、意思なんだ。
泣くほど辛いことがある時は、普段はご飯を食べない。食べれない。でも、それでも食べる。それは、結局、意思の力なんだ。
「涙には、悲しいことには、負けない」という意思。それが泣きながらご飯を食べることの意味なんだ。諦めない、という強い意思がそこにはある。泣きながらご飯を食べるということには強い意思がいる。
目的のバス停に降りながら考えた。
あの時、別れた彼女に聞いてみたいな。
あなたは泣きながらご飯を食べたことはありますか、って。
蓋に恋した男
先日、以下のニュースを見かけた。
「下水道で自慰なんて!」と笑うことは容易い。あるいは、「公衆門前でするなんて!」と批難することは容易い。
しかし、もし、彼が本当にこの下水道の蓋に恋していたならば、どうだろう。
彼が、あの下水道の蓋に出会ったのはもう5年前だ。自分が仕事でミスをして落ち込んでいる時にその蓋と出会った。下をうつむいて歩いていたからの出会いだった。
その蓋はまるでペトラ遺跡のように美しかった。神々しく、光って見えた。一目惚れだった。
それ以来、彼はその道を毎日通り続けた。引越をすると通勤路が変わるから、引越もしなかった。雨の日は水を吸い込むその様が愛らしかった。また雪の日は、こっそり雪をどかして上げた。夜中にこっそり雑巾でふいてあげることもあった。
そんな関係を3年続けた。
すると蓋が何か喋りかけているように思えた。
「今日は仕事はどうだった?昨日は何を食べたの?」と。
彼は蓋の上で毎日5分のおしゃべりを楽しんだ。
そんな友達の関係が1年続いた。
そして、彼はついに意を決した。告白したのだ。「考えさせてほしい」というのが蓋の回答だった。一週間後、蓋は回答した。お断りだった。蓋は「私はここから動けず、あなたに優しくできないから、あなたを苦しめさせるだけ」と言った。
それでも彼は諦めなかった。何度も通い、「僕はあなたがそこにいるだけで十分だ」と言い続けた。それでも蓋は愛を受け入れれなかった。時には黙ってしまうことさえあった。
それから1年。ついにその日がやってきた。ついに蓋は、彼の申し出を受け入れた。恋人の関係になることを認めた。彼は思わず蓋を上下裏返しにして戯れたものだ。まるで恋人同士がハグをし合うように。
それから、彼は初めての性行為を蓋とすることになった。その後のお話はニュースになっている通りだ。
彼女が夜は寝ているから、昼間にせざるを得なかった。彼は結果的に捕まった。でも、彼は満足している。無事に蓋と行為を遂げることができたから。
もし、このように彼が本当に蓋に恋をしていたならば。誰が彼を笑うことができように。マイノリティの人たちにもマジョリティの人たちと同じ人権があるように、彼にも当然、同じ人権がある。
少し人と異なって蓋が好きだった、というだけで。
もしかしたら、蓋好きの人たちがいつかデモをするかもしれない。蓋との自由な性交を求めて。もっとも、その時は自宅でする必要はあるだろうけど。
唐揚げにレモンかける派?
女が台所で揚げ物をしている。男は、リビングのソファーに座って携帯をいじっている。
男が携帯でゲームを一段落させる頃には、揚げ物もあがる。
「ご飯できたよー」
女が唐揚げを皿に盛りテーブルに運ぶ。男もご飯をよそって、汁物を入れる。お箸も出す。
「いただきます」
「あ、ビール」と男は冷蔵庫の方に向かう。
女は、レモンを絞りながら言う。
「思ったより揚げ物って簡単だね。後片付け大変そうだけど。レモンかけていい?」
冷蔵庫からビールを取り出した男が言う。
「ちょっと待って。俺、唐揚げにレモンはだめなんだ」
女は手を止める。しかし、既にレモンは絞り終えてしまってる。
沈黙が数秒流れる。
「ごめん」と女がいう。
「なんでかけていいって聞かないの?」
「聞いたじゃん」
「いや、俺が回答する前に絞ったでしょ」
「だって、好きだと思ったから......」
「お前ってそういうところあるよな。自分が好きなものが相手も好きって思い込むような。サラダにもマヨネーズかけるし、肉じゃがにタコ入れるし」
「でも、頑張って作ったんだから」
「そういう問題じゃないんだよ。なんで聞けないんだよ。唐揚げのレモンって不可逆なんだよ。水で洗えないから」
「洗えるよ。洗えばいいじゃん」
女は唐揚げの皿を取り、炊事場に向かう。そして、唐揚げに水をかける。レモンは流される。
男は肩肘をテーブルにつき、手で顔をおおう。
水浸しになった唐揚げを皿において、女はテーブルに戻る。
「はい。どうぞ。レモンなし唐揚げ」
男は動かない。女は黙って、部屋を出て行く。
〜
結局、この2人は1か月後に分かれることになる。唐揚げ事件以降、男は謝らず、女も謝らず、何度か会ったのだが、仲直りはできずに2人は終わった。
女は別れた後に、女子会で言う。「あの時、唐揚げなんかにチャレンジしなかったら別れなかったのかなぁ」
男は、行きつけのバーでバーテンダーに言う。「『たまには唐揚げ食べたいな』って言わなければ、あんなことにならなかったのかなぁ」と。
覆水盆に返らず、のことわざの通り、唐揚げは不可逆だった。2人の関係も不可逆だった。唐揚げの後には、唐揚げ前には戻れなかった。
「もし、唐揚げがなかったら」ということを、今後も2人は10年に渡って、何度も自問自答するだろう。
「唐揚げ事件がなかったとしても、唐揚げくらいで喧嘩するんだから、そもそも続かなかったよ」と言うのは容易い。
ただ、そうなっていたかどうかは誰にも分からない。2人はずっと「もし唐揚げなんて」と起こらなかった未来を想像し続けるしかない。
この教訓としては、付き合う時に相手がレモン派かどうかをしっかり見極めることなんだろう。
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ドラマ「カルテッド」の中のセリフ「から揚げにレモンするっていうのは、不可逆なんだよ」という言葉から発想を得ました。
親の死とクリーニングと
広島を離れたのは18の時だった。東京の大学に行くことになり地元を離れた。
東京行きの新幹線はとても心細かったのを覚えている。小雨が振る寒い3月だった。
それから10年経った。新幹線の寂しさはなくなったけれど、その分、地元の記憶も薄れた。
帰郷するのは、せいぜい年末くらい。1年で3日間だけだ。それも、おせちを食べていれば過ぎてしまう。
両親が平均寿命まで生きるとすると、あと30年。計算すると、両親と一緒に過ごせるのも1000日くしかない。一緒に暮らしていると考えるとたった3年。
そう考えると、もっとたくさん帰りたいと思うけれど、仕事をしているとなかなかそうは行かない。
電話や手紙をもっとしたいな、と思うけれど、日常という魔物に押しつぶされてなかなかうまくいかない。
それでも、週末にはクリーニングに服を出す。クリーニングに行く10分があれば、実家に電話すればいいのに、と思うけれど、ついつい電話をしそびれる。クリーニングよりも親の方が大事に決まっているのに。
どうしてかな、と考えた。
きっと人は遠い未来のことをうまくイメージできないんだろうな、と思った。30年後に両親がいなくなる、ということをうまく想像できないんだろう。それよりも、クリーニングにいかないと服が汚れたままだから困る、という方が想像しやすい。
もし未来のことを今と同じ重みで心配しちゃうと生きていけなくなるからなんだろう。だって、「60年後は自分が死ぬ」って明確だ。でも、それを「やばい、私60年後に死んじゃう」なんて心配したら生きていけない。会社なんていかなくなるし、税金さえも払わなくなっちゃうかもしれない。少なくともゴミは分別しなくなるだろう。
そうなると、いろいろ世の中がややこしくなるから、人は遠い未来のことはうまく想像できないんだろうな。
寒い夜だから
夏が好きだ。寒い冬は嫌いだ。
だから、今日みたいな寒い日は、とても嫌いだ。とっても嫌い。
ダウンジャケットのボタンを締めて、カシミア10%のマフラーを巻いて、駅から家へ急ぐ。こういう時に「駅チカに住めばよかった」なんてことを思う。先日、友達が蒲田に住み始めたと聞いて会社から遠いのに「なんで?」って聞いたら「駅直結のマンションだったから」と言っていた。当時は「駅直結ってそんなにいいものかな」と思っていたけれど、いまはわかる。とてもわかる。
そういえば、満員電車のおじさんのぬくもりが暖かいという話を聞いたけれど、こんなに寒いと、その気持もわかる。寒い時の方がデートはうまくいきやすいと聞いたことがあるけれど、本当かもしれない。
でも寒いのは嫌だ。
帰ったら湯船にお湯を入れよう、と思う。暖房も入れよう。暖かいコーンポタージュスープも飲もう。明日の女子会のお店は鍋にしようかな。
そして暖かい布団で眠ろう。
そんなシーンを想像したら幸せになってきた。想像で暖かくなる私はマッチ売の少女。
あれ、これって寒さのおかげ?お外が寒いからこそ、こんな妄想で暖まれる?
そう考えると寒いのも悪くないのかもな、と思ったりして。でも、早く家に帰りたい。少し駆け足になった。おでんでもいいな!