か弱きもの、そなたの名前は花粉症
この世には2種類の人間がいる。
花粉症の者と花粉症でない者だ。
花粉症である者は、前世で不徳をしたかのような責め苦をこの世で味わうことになる。目のかゆみ、くしゃみ、止まらない鼻水。まるでボブスレーのように滑り続ける鼻水。鼻水のウイニングランは昼夜止まらない。ガラスの10代のように駆け巡る鼻水。それを拭き殴るティッシュ。まるで親の敵のように拭き取るティッシュ。それによりえぐられる鼻の下の皮膚。炎症、皮のめくれ、ただれ。嗚呼絶望。
花粉症とは、もはや現代病という表現では生ぬるい。現代の七難八苦の1つとでも表スべきものだろう。生まれいづる悩みといっても良い。
彼らがどれだけ日本の国力を削いでいるか。円高よりも大きな痛手である。
「鼻をとって洗えないかな」と毎日多くの人が望む。ドラえもんの道具でさえも実現できなかった積年の願い。それはもはや人類の希求であろう。Drive your dreamは、その夢を実現するためのフレーズであろう。「鼻が洗える車」が発売されたら売れまくるに違いない。21世紀を素晴らしい世紀にするのは花粉症を直す薬になるだろう。
花粉症ではないだけで、花粉症の人よりも人生は3倍くらい楽しい。花粉症でない人はナチュラルボーンラッキーである。履歴書に「私は花粉症ではないです」とPRしても良いだろう。それだけ花粉症でない人は恵まれている。ヘミングウェイが「持つものと持たざるもの」といったのは花粉症のことだったのだ。
花粉症の人は花粉症というだけで春を怨嗟する。
とはいえ、花粉症の人にも1つだけ良いことがある。それは花粉症の人同士で慰めあえることだ。
か弱きもの、そなたの名前は花粉症。
できる経営者は去勢する
「Aの社長って、絶対に電車を乗らないんだって。なぜか知ってる?」
- 忙しいからじゃないの?
「それもあるかもしれないけど、忙しくなくても絶対電車は乗らないの。なぜかというと、電車に乗ると、競合に痴漢の冤罪などを仕組まれる恐れがあるからなんだって」
- なるほどね。仕掛け人が、その社長の横に立って「触られました!」って言えばいいからね。それが事実でなくても「疑いはかけられた」ということになるし。
似た話で、Bの社長は絶対に信号無視や信号のないところで道は渡らないって聞いたな。あとタクシーに乗る時は後部座席でも絶対にシートベルトするとか。いつどこで事故が起こるかわからないから。双日の副社長とかも事故だったしね。
「社長になると全社員の人生預かるからね。それくらい注意深くなった方がいいのかもね。」
- でもさ、その割には、よく色恋沙汰で揉めたりしてるよね。秘書と結婚したり、愛人のための子会社作ったり。
「隠し子がいたり、不倫されたって言われたり」
- 事故には気をつけるくせに、女性関係には脇が甘いよね。
やっぱり男女関係ってさ、リスクが高いんだよ。仕事だとインフルエンザのリスクを避けるためにはテレビ会議とかもできるけど、性行為はテレビ会議でできないじゃん。あとベッドの上は油断してるし。外交官の世界でも、『ハニートラップ研修』って実際にあるらしいよ
「じゃあ、恋愛に興味のない社長だったら安全だね」
-去勢するとか?
「昔の中国の宦官みたいに?いいかもね。うちの社長も女癖悪いし、今度の経営会議で提案しようよ。株価もあがる」
〜実際にその案は経営会議を可決し、社長は去勢することになった。
そして、その社長が『できる社長は去勢する』という本を出して、世の中は社長の去勢ブームになった。
しかし、その結果、去勢をした会社の業績は著しく悪化することになった。
なぜか?
結局、経営者のモチベーションは女性にモテることだったのだ。その目的がなくなった社長は抜け殻のようになったとさ。ちゃんちゃん。
男は知らない
男は、こう思っている。
女は電車に座る時に、自然と足を閉じるものだって。
馬鹿でしょ。そんなわけないでしょ。力を入れて意識して閉じてるんです。ぐだーっと男が足を広げるのが自然なように、女性だって力を抜けばそうなるんです。同じ人間なんだから当然でしょう。
床に座る時もそう。お姉さん座りだって足が痛いし。本来は、あぐらの方が気楽だし。
ほんっとに男は女性の努力を知らない。
デートに行く時も「飯代を男がおごるのは不公平だ」っていうけれど、女性がそのデートにいくために費やしてる費用を知らない。
服だって男性よりも持ってるし、エステに行ってるし、メイクには時間もお金もかけている。それだけで食事代をオーバーしそう。むしろエステ代を請求したいくらいよ。
男性はそのことを知らない。
ハイヒールで足が痛いことも知らないし、寝る前にメイクを落としてからじゃないとねれない苦痛を知らない。眠い時にお風呂上がりの髪の毛のドライヤーがどれだけめんどくさいことか。ベッドの中ではおならをしないといけないし。
移動の時のカバンは重いし、トイレでいつも化粧直しをしていることを男は知らない。
もっとも、男が一番知らないのは、メイクを落とした時の私の素顔だけど。
Airbnbを使う人は、絵画にご注意
一週間、京都に行くことになった。AirbnBというサービスを使うことにしたんだ。
ホテル代わりに人の家を借りることができる。ホテルよりも安く借りれるそうだ。
良さそうな部屋を予約して、京都駅からそこに向かう。京都駅から少し歩いたけれど、部屋はきれいな部屋だった。洋風の1LDKで鴨川にも歩いていける部屋だった。
でも1つ気になることがあった。
その寝室には洋画が飾られていた。踊っている女性が描かれていた。最初は特に気にならない絵だった。「踊ってるなー」みたいな。
でも、ある時に気づいたんだ。その絵の「目」が動いていることに。
最初の日は、その目はまっすぐに見ていた。でも翌日、散歩から帰ってきたら目が右を見ていた。
最初は「気のせいかな」と思った。黒目も小さいし。誰も目が動くなんて思わない。
踊っている絵だから、目がまっすぐでも、右でも左でもそんなに違和感はない。
でも翌朝、その絵を見たら、左を見ていた。昨夜「右を向いている!」と思ったから、今度は間違いはない。「目が動いている」。
ただ、それでもそんなこと信じたくなかった。借りてる部屋だし、そもしも絵の目が動くなんて信じられない。そんなこと学校で習わなかった。だから、写メを撮って翌日見てみたんだ。すると、写メの絵は左を見ているのに、絵画を見ると右目を見ている。
思わず「ぎゃー」といって携帯を落としてしまったよ。
その時だった。俺の声に驚いたのか、目が瞬きしたんだ。これはびびった。目の前で絵が瞬きする。それは、相当くるぜ。
俺は思わず気を失ったよ。
そして、起きた時には、今度は「目」はなかった。でも真っ暗じゃない。それは空洞だったんだ。目に指を入れるとそこは穴が空いていた。
僕が絵画と思っていた目は、人間の覗き穴だったんだよ。きっとこの部屋のオーナーが変態で、人を覗くために作った穴だったんだろうな。
もし、Airbnbを使う人がいたら、絵画を飾る部屋を借りるのは気をつけた方がいいよ。
※フィクションです
くじ
サッカーの試合結果を予想するスポーツくじ「BIG」で、ランダムであるはずの予想結果が、2回続けて全く同じだったそうだ。
そんなニュースが騒がれていた。
くじで思い出すのは、小学生の頃だ。私は地元のお祭りに参加していた。屋台がでる否かのお祭りだ。
焼き鳥やかき氷や、そして、おみくじ。子供の頃の私はゲーム機が欲しくて、そのくじを買う。300円かそこらだ。でも当たるはずもなく、ペンだかなんだかをもらった記憶がある。
私を連れていってくれたおじは、その屋台で「全部のチケットをくれ」とチケットを買い占めた。いま思い返せば10万円分くらいだろうか。でも、結局、そこに当たりはなかった。そして僕に「残念だったね」と言ってくれた。
それから僕はギャンブルに手を出さなくなった。
でもそんな僕が人生で一番ギャンブルをしたといえるのは、エイコと付き合ったことだろう。エイコはギャンブラーだった。人生における不確実性を楽しむ人だった。
資産運用は仕手株やFXをするし、仕事もしょっちゅう転職していた。確実的なものが我慢ならないのだ。食べログも高い評価の店は美味しいとわかっているから、評価のない店にいった。あるいは、評価をみないで行き当たりばったりで店に入っていた。
ゲームはガチャを愛用し、すぐにお金を使い果たしていた。
でも神社のおみくじはしなかった。「そんなのどうでもいいから」ということだ。天気予報も見なかった「外に出て天気を知った方が楽しいじゃん」といっていた。だからすぐに雨に振られて風邪を引いていた。
マカオにいった時は彼女はひたすらルーレットをして、僕はバーでお酒を飲んでいた。
僕は、自分がギャンブルをしない人生を選んだからこそ、そんな彼女に惹かれていたのかもしれない。まさか彼女と付き合うことがギャンブルみたいなことになるなんて思いもしなかったけれど。
結局、ギャンブル好きの彼女は恋愛も長続きしなかった。僕との恋愛も数ヶ月で終わってしまった。
それから彼女は3回、結婚をした。そして、また彼女は今、1人を楽しんでいる。
彼女を見て思う。人生でギャンブルをする時は、「当たり」を探すのではなくて「不確実性」を楽しむに限るな、と。彼女がいま、幸せかどうか知らないけれど、「私の恋愛に当たりはなかった」というような女ではなかった。
彼女はずっとこれからもくじを引き続けるのだろう。
僕は、自分がひかなかったクジを思い出して、その代わりに得たものを考えた。わからない。でも、彼女の方が人生を楽しんでいたな、と思った。
そんなことを考えながら帰り道で携帯を取り出した。LINEで彼女の名前を探す。「いま、何してるの」と文章を打った。ギャンブルをしないような僕が彼女に連絡するのは、きっと彼女にとって「不確実」なことだよな。
そんなことを考えながら、LINEを送った。
歩く財布
その男が、いつ財布を落としても、気づけば家の前に財布が置かれてあった。
ポケットを触って「あれ、ないな」と思っても、数日後には家の前に財布が置かれていた。
いつもそのように返ってくるから、男は「不思議だな」というのも思わずに、そういうものだ、と思っていた。財布というのは、勝手に家に返ってくるものだと。
ただ、私達の知っている世の中はそのようにはできていない。財布には足はないし、ましてや、帰省本能はない。むしろ、家出をしたがるものだ。どれだけ多くの人が財布をなくし、涙を流したことか。きっと映画タイタニックで流された涙よりも多くの涙が財布の家出には流されたことだろう。
でもその男の元にはきちんと財布が帰ってきた。
なぜか。
そのコンゴのダフサルという町では、お金がそもそも必要ない町だからだ。だから、財布にもお金が入っていない。男はファッションで財布を持っているだけ。落としても、街中の人が顔見知りだから、「またあの坊やが何か落としている」と家の前にまで届けてくれる。
だから、男は、財布は家に返ってくるものだと思っている。
世界には、財布が自動的に家に帰る町もある。我々はそんなことはしらない。お互い知らないことが多いのだ。
たっぷりのコーヒー
たっぷりのコーヒー、という表現は魅力的だ。セクシーでグラマラスで蠱惑的だ。
小説やドラマではよくみる表現で。特に海外のドラマでは「たっぷりのスタバのコーヒーをもって出社」なんてシーンは、セックス・アンド・ザ・シティやザ・スーツなどでも見かけた記憶がある。
なぜ、この表現が魅力的か、と考える。恐らく、「たっぷりのコーヒー」が用意されるシチュエーションがエキサイティングだからだろう。
仕事前や戦いの前にテンションを上げるために、あるいは、眠気に負けないようにたっぷりのコーヒーを飲む。
もちろん、それには大変さも含まれている。だからこそ、魅力的なのだ。「ピナコラーダ」や「パイナップルケーキ」とかでは、セクシーさが足りないのだ。それは甘いだけだから。
たっぷりのコーヒーは、「美味しさ」と「苦しさ(苦さ、でも良い)」がブレンドされているからこその魅力なのだ。
人はたっぷりのコーヒーを飲んだ回数分、たっぷりのコーヒーの魅力を知るのである。多分。