眠る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです。最近テクノロジーをテーマにしたものに凝ってます)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます あとスターも励みになります!

自撮りブームに潜む罠

ここ数年、自撮りのブームがどんどん加熱してきている。

FacebookInstagramなどのソーシャルが台頭し、写真をあげる機会や場所、ニーズが高まった。人は行った場所で自撮りをし、承認欲求を満たす。

そのための道具も生まれた。まるでゴールドラッシュのジーンズのように。

最たるものが自撮り棒だろう。その棒があれば、自分の写真をひき目で撮ることができる。ディズニーや観光地ではおなじみのグッズだ。最近はスノボをしながらこれで自分の滑るシーンを撮るという強者もでてきた。

英語ではセルフィーとも言われ、世界中のトレンドなのだろう。

変わった自撮りプレイヤーも台頭してきている。たとえば以下の男はゲーム大会で半ケツと自撮りを撮るという行為をしている。自撮り道の悟りを開花させた1つであろう。もはやアートである

»半ケツで座るゲーム大会の参加者を見つけてはそっと祈りをささげる男の不思議な画像が話題に - DNA

 あるいは、以下のように高いビルの上などで自撮りをするという度胸試しのような自撮りプレイヤーたちもいる。高所恐怖症の私からしてみれば信じられない。

»ロシア美女が超高所で自撮り撮影した写真に玉ヒュンw - BUZZNET|おもしろネタニュースまとめ

個人的に好きなのは以下の自撮りだ。道行く知らない人にタッチして驚いた顔を自撮りしている。動画の自撮りという点でも面白い。

自撮りが恥ずかしい人には、顔の加工ツールもでてきている。顔加工利用として多くのユーザが使うSNOWはダウンロードが8000万を超えたとか。もちろん本家のSnapchatのレンズも大人気だ。

これによって、女性たちは自分の顔に犬などのレイヤーを被せ、自分の顔を隠したままで自撮りをあげることができるようになった。

それによりさらに多くの人が自撮りの世界に入ってきた。

今回はそんな自撮りに関するお話を紹介しよう。

主人公はモナ。私の友人で、19歳の大学生だ。

彼女も他の大学生と同じで自撮りをよく撮っていた。東京タワーを背景にした自撮りから、新しいメイクの半分顔を切った自撮りから、そして、「眠い」というコメントつきの顔アップの自撮りまで。

毎日数枚はInstagramに投稿していた。Instagramは1日に1枚程度しかあげない子が多い中、彼女はよく写真をあげていた。

私が彼女の自撮り写真に映るその人に気づいたのは、「かっこいい人がいるな」と思ったからだ。彼女が撮った渋谷のカフェの自撮りにその男性が映っていた。長髪でメガネをかけて。彼女の後ろの席でコーヒーを飲んでいた。

それから2週間後のモナの写真で、私は彼をまたも見かけることになる。

それは、海の写真だった。モナが友達といった湘南の海で自撮りをあげていた。その少し後ろにその男性が映っていた。歩いているシーンだった。

「わ」と思わず私は鳥肌がたつ。「同じ人が写っている。モナの過去の写真をずっと遡ってみてみた。

すると他にも2枚の写真で彼を見つけることができた。

これは偶然じゃない。

私はモナに言う。

「ねえ、モナ。この人、ストーカーじゃない?モナの写真に何枚か映ってるの。あなたのことを追いかけてるから映るんじゃないの。心当たりある?」

自撮りだと映っている自分はカメラの方向に向いている。だから、後ろに誰が写っているかなんて気づかないのだ。それを利用して男は存在をアピールしているのかもしれない。

すると、モナはいった。

「あ、バレちゃった?それ、私がその人のことを撮ってるの」

つまりはこうだ。ストーカーだったと思った男はストーカーではないかった。むしろ、モナがその男のストーカーだった。

その男の写真を撮りたいがために、自撮りを撮っていた。知らない人に「写真を撮らせて」とは言いにくいが、自撮りの背景にこっそり相手を撮る分には咎められることは少ない。なぜなら相手は自分が撮られているなんて思っていないからだ。

もしかして、あなたの前の席で自撮りをしている女子高生は、あなたの不倫シーンを撮影している探偵かもしれない。

笑顔

電車に乗っていた。前の座席に座っている人たちを見た。

みながみな、携帯かiPadを見ていた。1人は寝ていたけれど。

「携帯ばっかりみてる」なんてつまらないことは思わない。ぼーっと電車の天井を見ているよりも、スマートフォン2chまとめでも読んでいた方が楽しいと考える人がいたっておかしくない。

しかも、素敵なことに、彼らの6人のうち2人がニヤニヤしていた。LINEで素敵なやり取りをしていたのかもしれない。それともボケてで面白いボケを読んだのかもしれない。いずれにせよ、ニヤニヤしていた。

人がみると「気持ち悪い」と思うかもしれない。ただ、僕は「素敵だな」と思う。人の笑顔って素敵だ。人の笑顔を見ているとなんだか嬉しくなる。幸せのおすそ分けをもらったようだ。きっと彼や彼女たちはうれしいことがあったんだ。それって素敵じゃないか。

だから、僕はふと思った。電車の中で他の人を笑顔にできるともっといいんじゃないか。アメリカだったら地下鉄の中で楽器を演奏する人たちもいる。彼らは人を笑顔にする。もっとも、お金はせびられるけれど。

だから、僕はこっそりと変顔をしてみる。前の席の人たちは携帯を見ているので僕の変顔に気づかない。僕の変顔はどこにもたどり着かないまま、宇宙の藻屑となる。誰かが笑顔になってくれたらいいのに、と思ったけれど、誰も笑顔にならないまま、僕も苦心の顔芸は終わった。

はっと視線に気づき、右を向くと、斜め前の方に立つ20代の女性がこっちを見ていた。きっと僕の変顔をみていたのだろう。錦織がトイレ行きたいけど我慢している時のモノマネ顔芸をこっそり見られていたのに違いない。

残念なことは、その女性は僕の変顔を見て笑顔になったのではなく、顔を引きつらせていたということだ。むしろ僕は彼女を怖がらせてしまった。ごめんなさい。

人を笑顔にするのは難しい。次は錦織がホワイトデーに何を買おうかなやんでいる時の顔マネを習得することにしよう。

同僚とランチ

「何か食べたいのある?お肉だっけ」と僕は聞く。

「お肉いいですね。お肉いきましょう」と彼女は言う。

仕事でお世話になった同僚にお礼としてランチをごちそうすることになった。彼女のように「食べたいもの」がある人は助かるな、と思った。世の中の7割くらいの人は「何を食べたい?」と聞いても「なんでも」となる。もちろんそれはそれでいいのだけれど、お礼でごちそうするランチくらいは相手が好きなものを食べてもらいたいのが心情だ。だから、彼女みたいに「肉が好き!」という人だとありがたい。

人気のお肉のお店に行くと、満席だった。人気の店は人気ゆえに混むのだ。世の中で「人気だけど空いている」というお店は存在しない。

「じゃあ、最近できたあそこにいこうよ」と、近くのステーキの店に向かう。そこは、空いていた。「空いている」という店は、それだけで価値がある。食べログではあまり評価されない価値だけど。

生きていると2種類の店を探すことが求められる。「事前にに決める店」と「今から行く店」だ。前者は好きな店を予約していけばいい。後者の場合は「空いている」ということが重要になる。だから、大人になると「美味い店」だけではなく「空いている店」も求められるのだ。そういう点では、「美味いけど高いから空いている店」は、世の中に求められているお店なのかもしれない。

ランチでは、僕は彼女に一番高いものをすすめる。せっかくならば美味しいものを食べてほしい。すると彼女はそれにする、という。僕はもう少し安いものを食べたかったけれど、彼女にだけ高いものを食べさせるのは相手にも気を使うだろう。僕も同じものにする。

相手に気持ちよく食事してもらう、ということは往々にしてトレードオフだ。相手に楽しんでもらおうとすると、自分は少し無理をする必要がある。接待が最たるものだろう。もちろん自分が楽しむから相手も楽しむ、あるいは、お互い無礼講だから気を使わないという考え方もある。相手がそう考える人ならば、それは成り立つだろう。しかし、相手がそう考えない場合は、それは成り立たない。だから、相手がどうすれば気持ちいいかは自分で判断しないといけないのだ。

近況を聞く。仕事の話をする。週末の過ごし方をする。引越するという。僕にも質問がくる。適度に回答する。僕は話するよりも聞く方が好きだ。できるだけさらっと自分への質問は流し、相手への質問につなげる。

「コーヒーを」

ランチのコーヒーはなぜこれほどまでに美味しいのだろうか。夜はアルコールも入っているからコーヒーを飲まないからこそ、昼の食後のコーヒーの美味しさが際立つのかもしれない。食後のコーヒーはミルクも砂糖もない方がいい。この黒い液体が胃に入った肉を洗い流してくれるような気がする。

コーヒー一杯分の会話を交わし、お会計をする。ランチだけれどもテーブル会計だ。レジの会計は相手を待たせることになる。だから、テーブル会計は助かる。

店を出て、オフィスまで戻る7分間の会話をする。いつしか話は最近の話から今後の話に変わっている。

1時間のランチで、時間軸は過去から未来へ変わる。

僕の借りも、ステーキ1枚分に変わる。それで借りを返せたのかどうかわからないけれど、足りなければ、また返していけばいい。

ランチをまたいで色々なものが変わり、また、変わった何かを手にして僕らは次のランチに進む。

いまいる場所を友達と共有するサービス「snapちょっと」

先日、以下の記事が話題になっていた。

»世界史サイトがすごい!紀元前4000年から、1年刻みで各国の国名と指導者が分かる! - Togetterまとめ

従来、世界史は「西洋」「中国」といった形で場所にフォーカスして歴史を学んでいた。そのため、ローマ帝国がある時に中国がどうなっているか?といったことはわかりにくかった。

しかし、上記のようなツールを使えば、「西洋でこの王様がいた時に日本は誰がいたのか」などを年代区切りで横断で世界を見ることができるのだ。

この記事を見て

「面白い」

と思った男がいた。男の名前はミヤマス・ザッカーバーグといった。

彼は「この世界地図の考え方を、今の日常に応用できないだろうか」と考えた。つまり「いま、自分が生きているこの瞬間に友人や両親は何をしているかを知りたい」と。

彼の友人はいった。

「それってツイッターじゃん」と。

ザッカーバーグは答えた。

「違う。ツイッターはやってる人の今はわかるが、やってない人の今はわからないのだ」

そして、彼は自分のサービスを開発した。名前は「SnapChot(スナップちょっと)」というサービスにした。「ちょっとだけみんなの今の時間をSnap(ありのまま切り取る)する」という思いから出てきたサービスだった。

そのアプリを入れたユーザは友達みなに自分の居場所を自動で伝えることができた。GPSの位置情報をバックグラウンドで取っているのだ。友人はFacebookTwitter、電話帳のネットワークを活用することができた。

またたく間にそのサービスは広がった。人はツイッターのように投稿したいことはなくても移動はする。だから、移動という無言のメッセージの心地よさが多くの人に刺さったのだ。

「いま、上野で花見」「いま、ディズニー」「いま、渋谷で飲んでる」とFacebookに投稿するような年でもない人が、それでも、承認欲求を満たすためにこのサービスを使った。

「いま自分がどこにいるか見られている」というだけだが、その快感は想像以上のものだったのは。人は本能として「自分が気にかけられたい」と思っていたのだ。

そして、実際にそのサービスは利便性も多かった。たとえば「いま近くに誰がいるのか」といったことも可視化できた。だから「あ、近所に昔の同級生がいる。久しぶりにお茶でもしない?」といったコミュニケーションが可能だ。いままでできなかったコミュニケーションである。

あるいは、海外の離島で、偶然、前職の人がいることがわかれば、一杯、お酒でも交わすというものだろう。

インターネットによって、人はリアルでの人との関わりが少なくなったと言われたが、このサービスは逆だった。リアルで合うことを促進した。しかも、それがFacebookTwitterでつながっている相手だけだから、犯罪が起こる可能性もとても少なかった。まさに革命だった。

こうして、日本ではLINEを超えるほどの多くのユーザがこのサービスを使った。「ただ居場所を友達に自動で伝える」というシンプルなこのサービスが。

もちろん小さな事件はいくつも起きた。芸能人が居場所を垂れ流してしまったり、あるいは、刑事が居場所を伝えてしまい捜査の支障になってしまうということが。それでも、人間の居場所の可視化は価値があった。

映画であるような「複数の人の人生を並行で見る」ということができるようになった。「いま、あの人は何をしているんだろう」という想像さえも不要になった。いま、あなたの手元で多くの人の人生が見れるのだから。

FacebookのLikeやツイッターのリツートと違う快楽がここにはあった。それは、「この人生でたまたまであった友人たちと、もう一度再会し、同じ空気を吸う」ということの価値だった。

それは、誰も気づかなかったけれど、想像をしている以上に貴重なことだったのだ。

昔の友人といまいちど酒を酌み交わす。それは、ずっと心地よいことだったのだ。

戦う君の歌

まるで自分を切り売りするかの女性がいる。

Twitterでシモネタなどの過激な発言をして注目を浴びる。あるいは、町中で奇抜な格好をして笑われる。彼氏に強がって振られてしまう。

彼女がどこまで意図してやっているのかわからない。恐らく半分はわざとで、半分は天然だろう。危なっかしいと言えば危なっかしい。時には人に嘲笑され、あるいは、悪意をぶつけられ。

「またやっちゃった」と彼氏と別れたら僕に連絡がきて食事をする。僕は安いイタリアンをごちそうしてあげる。あるいは、「なんか怒られてる」とTwitterで炎上しだしたら僕にLINEがくる。僕は「そうかそうか」と近所のファミレスで話を聞く。「そうかそうか」だけしか言わない。

そんな時、彼女の手は震えているストローの袋をいじる手が震えている。幼稚園の頃から何も変わっていない。彼女は、男の子から「バーカ」と言われ、震える手でたんぽぽを紡いでいた。今でも、自分が不安定な時は、彼女の手は震えている。

それでも、1つ失敗をする度に彼女は強くなっていく。まるでバネのように1つ沈むと次のジャンプを高く飛ぶ。いつしか人からの「馬鹿」という批難は無視できるようになったし、悪意のあるヤジにも毅然と立ち向かえる度胸を手に入れていった。

まるでスノボの初心者が雪山で尾てい骨をうちつづけながら上達するように、いつしか彼女は軽やかに人からの嘲笑と羨望の上をすべり続ける。手を震わせながら、それをさとられないように上手に滑る。

いつしか、嘲笑の割合が嫉妬と羨望にとって変わる。いくら批難されても立ち上がる者には人は畏怖を覚える。人は誰しもへこむ。それを物怖じせず突き進めることはそれだけで圧倒的な才能なのだ。タフである、というのは強い魅力なのだ。

人は言う。

「彼女は何と戦ってるんだ」と。

決まってるじゃないか。自分と戦ってるんだよ。自分の手の震えを抑えるように、彼女はまた一歩を踏み出す。批難を受ければ受けるほど「ナニクソ」と戦う彼女は、戦国時代に生まれればいっぱしの武将になったかもな、と思うほどだ。

恐怖と戦い手を震えながら槍を振り回す武将。そんな武将になら殺されてもいいな、と思う。できれば「そうかそうか」と言う乳母あたりの役目がいいけれど。

大人は秘密を守る

椎名林檎が作詞作曲した最新曲に「おとなの掟」という歌がある。ドラマカルテットの主題歌となっている歌で、歌うのは、ドラマの演者さんたちだ。

その最後のフレーズは

おとなは秘密を守る

というものである。

- そうだよなぁ

と強く同意してしまう。大人は秘密を守るのである。

逆に言えば、子供のころは秘密は守らなかった。守れなかった。つい誰かに言ってしまっていた。それは「タカシの好きな子、あかねちゃんだって」といった友達の恋愛事情や「うちの家に貯金はないんだって」といった家庭の事情まで。「ここだけの話だよ」という条件の元に、子供はそれを言ってもいいと解釈していた。

その秘密を言うことによって注目を浴びるという承認欲求に端を発しているのだろう。あるいは、秘密を共有することによる共同体のグルーミング効果もあっただろう。秘密を共有する者同士は仲良くなるのだ。犯罪者同士が仲が良いのと同じで。

そもそも、子供は秘密を守っておくほどの度量がなかった。秘密を黙っておくというのは精神力が求められる。子供のキャパはそんなに大きくない。そうして、子供は秘密をばらまいていた。「世界に言わなければ少しはいっていい」という独自の解釈で秘密をばらまいていた。

大人になると違う。大人になると秘密の濃さもましていく。増すにつれ、それを漏らした時のリスクが大きくなり、黙っておくようになる。

そうして、大人は秘密を少しづつ守れるようになる。

でも、そんなにみな秘密が守れるなら、世の中、週刊誌は売れていない。秘密を持っておくというのは辛い。人は人に言いたくなる。そうして、子供の頃と同じように「ここだけの話ね」という呪文の元に秘密は公開される。とはいえ、子供のように、ストレートには言わない。相手も選ぶ。大人の解釈では、それは「秘密を守る」の範囲内だ。

いずれにせよ大人にとっても秘密は厄介だ。

僕は、口が固いと思われているのか、人から秘密を告白される。不倫の話や人の悪口、あるいは、犯罪の話まで。教会の牧師さんのように僕は黙ってその話を聞く。何もアドバイスしないし、何も反論しない。ただ、黙って話を聞く。そして、人は話をしたことに満足して次に向かう。

僕だけが秘密をどんどん抱えることになる。壺に石を投げ込まれるように、僕の心の壺には消化できない石がどんどんたまる。時には石のせいで、壺に入った水がこぼれていく。でも、僕はその秘密は誰にも言わない。なぜなら大人だからだ。

その分、こうやって匿名のブログに秘密をちょびっとだけ書く。秘密の再加工だ。そうして、秘密は秘密じゃなくなり、小話になって街を歩く。静寂が終わりを必要とするように、秘密も開放を必要とする。まるでエントロピーの法則のように。

大人は秘密を守るけれど、その分、葦は必要だ。王様の耳はロバの耳って叫ぶための。

そうやって、大人は秘密を守る。

帰宅途中の家の灯り

いつも灯りが灯っている家があった。夏は窓を明けているからだろう。たまに笑い声も外に漏れてくることもあった。

男はその灯りが好きだった。

駅から遠い男の家。畑と空き家ばかりの帰り道。

そんな帰宅途中にあるその一軒家の灯りは、男にとっての灯台のようなものだった。行き先を間違えないように見守ってくれる灯り。仕事で帰宅が遅くなった時もその家に灯りが目に入ると、「起きて待ってくれていたんだな」と、励まされた。薄暗い帰り道を灯して、男を助けてくれた。

同時に、安らぎでもあった。家に帰っても誰もいない。でも、この家では灯りを灯してくれている。1人じゃない、と勇気づけられた。

ただ、ある日、電気がついていない日があった。それまでも何度か暗かった時はあるので「今日は残念だな」と思った程度だ。

でも、翌日も翌日も真っ暗だった。「おかしい。旅行かな」。男は不安になった。暗い日が一週間は続いた。

男は自宅に帰ることが怖くなった。灯りのなくなった道を1人で歩くようなものだ。不安で、そして、怖い。

家に帰ることが怖くなった男は、ネットカフェで寝泊まりをする日が続いた。しかし、お金は続かない。男はいやいや暗い夜道を帰ることにした。

「どうして灯りをつけないんですか」とその家もインターホンを鳴らしたこともある。でも、誰もでなかった。もしかしたら引越したのかもしれない。あるいは事件に巻き込まれたのかもしれない。

「では、自分で灯りをつけるしかない」と男は考えた。男は家の周りに灯油をまき、ライターを投げ込んだ。

ぶわっと炎が広がり、その暗い家を明るく照らし始めた。

男は満足して、家に帰った。

この辺りが家が少なく薄暗いのは、「放火魔が出る」と言われて誰も住みたがらないから、ということを男は知らない。