合コンであったちょっと怖い話
今週のお題「ちょっとコワい話」
友達から「飲み会いかない」と言われる。よくあるコンパだが、今の時代「コンパ」なんて言わずに、飲み会という。
その日は特に予定もなかったし、何よりコンパは楽しい。昔はコンパは好きじゃなかった。女性全員と等分に話をしないといけないから気を使う。他の男性と喧嘩になるから、素敵な人がいても、自分がアピールしすぎてはいけないし。だから、コンパは好きじゃなかった。
でも、最近はコンパが楽しい。男女がお酒を飲む場、と捉えるようになったからだ。若い頃のようにガツガツした気持ちはない。だから、ようやく最近は飲み会が楽しくなった。
その飲み会は、ユウタの元彼女の主催するコンパだった。女の子たちは銀座の会社で働いていたので、場所は銀座になる。女性は僕たちと同じ年。良いのか、悪いのかわからないけれど、若すぎるよりは良いだろう。若すぎると話は盛り上がらない。
店は、ユウタが選んだイタリアンで、銀座のほどよく雰囲気がよく、ほどよくリーズナブルなお店。半個室で、ユウタらしい間違いのないチョイスだ。
セオリー通りに女性は5分遅れてきた。そして、セオリー通りに「遅れてごめんなさい」。女性は、5分遅れがマナーだと思っているふしがあるし、なんなら、男性でさえもそう思っている。
男性4人、女性4人の組み合わせ。こういうのは女性が1人さらに遅れてきたりするのだけれど、全員揃っていて好印象だ。
席は対面ではなくW字に座る。話は、自己紹介から、仕事の話、夏休みの話に好きな男性の話と、セオリー通りに進む。一般的な話から、より色気のある話へ。
そして、お酒のおかわりが4杯目くらいになったところで店の飲み放題の時間が終わる。
2次会にいくかな、と思ったけれど、ユウタはその話を出さずに切り上げた。どうやら、いまいちだったらしい。僕的には2次会にいってもよかったのだけれど。
じゃあね、と店の前で女性と別れる。こういう時の女性の心境はいかなるものなのか。
男性陣たちで二次会をして、反省会を楽しむ。この時間が一番楽しいかもしれない。ユウタ的にはタイプの子がいなかったらしい。
そして終電間際の電車で家に帰る。良い金曜日の過ごし方だ。
最寄り駅について、LINEを見ると、LINEでグループができていた。今日の飲み会のグループだ。ユウタが好みの子がいなくてもちゃんとグループを作るところが彼らしい。
いまや、個別でLINEのやり取りはしない。めんどくさいからだ。それよりもLINEで幹事同士が男女全員を入れたグループを作る。そうすると、女性にとっては個別に「ありがとうございました」を送る必要はないし、男性も個別で聞く必要はなくなる。
なんとなく、ぽちぽちと女性陣を友人に追加する。
あ、とその時、気づく。
1人の女性が、追加できない。既に友人だったのだ。血の気が失せる。
「誰だ。あの中に知り合いがいたのか?」
思わずその女性のアイコンをクリックする。顔は小さくてわからない。名前はAと入ってる。Aって子いたかな。
その子とのやり取りを表示する。
さらに血の気を失う。
彼女のことを僕はブロックしていた。やりとりは5年前だ。
うっすらと記憶が蘇ってくる。コンパかなにかで出会った子で、その日のうちに家にきた。でも、そこでは何もなく、翌朝、別れた。
でも、彼女からは「好きだ」「また会いたい」と重ねてLINEがきている。それにたまらず、僕はブロックしていた。
そんな女性があの場にいたんだっけ。
「やっと、再会できたね」と後ろからユウタの元彼の声が聞こえた。ユウタが元彼女と分かれた理由を必死で思い出しながら、僕は後ろを向いた。
デートのお作法
「女性は、いろんなデートの仕方をしってるけど、男性は1つのデートのやり方しかしらないんだよ」
- どういうこと?
「デートは、だいたい男性がリードするじゃん。特に最初のデートは。
場所とか時間とか、お店とか。それに、待ち合わせをどこにするか、メニューをどう頼むか。二軒目はどういくか、とか。
だから、男性は自分のデートのやり方をするの。で、女性はいろんな男性とデートにいくから、いろんなやり方を知るわけ」
- なるほどねー。じゃあ、男性は他の人のデートのやり方を知らないのか
「そうなんだよ」
- じゃあ、今度、男性とデートしてみたら?
「いいね。その場合は、じゃんけんで幹事を決めるのかな」
- でもその場合って、男女のデートの作法とは違った作法が必要になってきそうだよね、もはや。
「もはやそうだね。席の上座にどっち座るかとかも男女だと女性が上座だけど、同性同士ならどうするのかな」
- もはや、デートのやり方とかそういう話じゃないね。哲学論争になりそうだね。
デートの思い出はいつも雨
晴れたらしたいことがたくさんあった。
ピクニック、お散歩、テラスでランチ。
昔の歌で「晴れたらいいね」という歌があったけれど、その歌を聞くと私はとても寂しくなる。
山へいこう次の日曜
という歌詞を聞いて、私は「晴れても、私は山にいけない」と悲しい気持ちになった。
なぜなら、私の恋人は土木工事で働く人、すなわち土方の人だったから。だから、雨になると仕事は休む。その分、晴れていると休みなしで働いていた。
だから、私はその人とのデートはいつも雨だった。梅雨になると一緒にいれることを喜んだけれど、彼は、雨だとお給与が減るから、少しいらだっていた。
私のデートの思い出はいつも雨だった。部屋のベッドから窓に滴る雨水を眺めていた。
でも1度、晴れの日にデートをしたことがある。
「誕生日どうする?」と彼が聞いてくれたので、私は「晴れの日にデートしたい」と言ったのだ。
彼は、「わかった」と笑ってくれ、はじめての晴れの日のデートをした。ただの散歩だったけれど、そんなことがとても楽しかった。
傘をささずに彼と手をつなぎ歩くことができた。おしゃれをしながらデートをすることができた。太陽を浴びながら彼と話をすることができた。
「もしかすると前世は植物だったのかな。 こんな太陽がうれしいなんて」と私は太陽に向かって呟いた。
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今週のお題「晴れたらやりたいこと」
パクチー理論
- 男はいい女を見たら、すぐに恋するじゃん。女は時間がかかるんだよ
と、レイコが飲み会で言っていた。
そうかもな、と思った。
それをレイコは「パクチー理論」といっていた。
多くの人は最初はパクチーが苦手だ。ただ、ずっと食べ続けているといつしか好きになってくる。タイで「NOパクチー」といっても、パクチーが出続ける地獄を経験して、パクチーが好きになる。
恋愛も同じだ、と。男と出会う回数が増えると、いつしか好きになる。
女性が「1回目のデートで家にいかない」のは、「1回目だと遊ばれるから」と思うのではなく、「まだ恋愛温度が上がってない」からだと。
女性は3回、4回と会ううちになんだかその人を好きになっていく。面白いのは、時間ではないということだ。5時間一緒にいるよりも、1時間づつ2回会った方が親近感は増したりもする。
大勢のイベントで何度かあっているだけでも恋心になったりする。これがパクチー理論だ。
そういうレイコは、ある男と結婚した。
その男は、レイコの最寄り駅の駅員さんだったそうだ。
ルイボスティ
起きて「ここはどこだ」と思った。ああ、繁華街のラブホテルだ、と気づく。
クラブで出会った女の子とそのまま駆け込んだラブホテル。2軒が一杯で3軒目にようやく空いていた。少し高かったけど。
そして、気づけば、今だった。朝だった。僕と隣で寝ている彼女は裸で寝ていて。
僕は布団からのっそりと起きて、酒が残る胃にムカムカして。水を飲みたいけど、ラブホの水は200円もするので、なんだか悔しい。
しかたなく、備えつけの安いインスタントコーヒーを僕はあける。水を沸かす。
そして顔を洗っていると、女の子も起きたようで。
「コーヒー飲む?」と聞いたら「いらない」と言われた。
ああ、コーヒーを飲めないのか、と理解した。代わりに水をあげた。200円のエビアンを。
数日後、彼女と食事をする機会があった。
食後に、「紅茶を飲む?」と聞いたら「いらない」と言った。コーヒーも飲めなくて、紅茶も飲めないのか、と思った。
「カフェインが飲めないの」と彼女は言う。
「それを知った友達がね、このあいだ、ルイボスティーをくれたの。ルイボスティーはカフェインが入ってないの。優しいでしょ」
と彼女はまくし立てた。僕は「コーヒー飲みたいな」と思いながら、うんうん、とうなずいた。
そして、こっそり携帯でルイボスを調べる。
ケープタウンの北にしか自生しないとか。いったこともない南アフリカ共和国の山間のルイボスを想像してみた。
二日酔いには効かなさそうな葉っぱだな、と思った。なんとなく。
でも「ルイボスティはカフェインが入ってない」という情報は覚えておこう。いつか、なんかのクイズで出るかもしれないし。
なんのクイズだよ、と自分で突っ込んだ。彼女は優しい友達の話を続けている。僕は「コーヒー飲みたいな」と思っている。
お酒を飲めないから
飲みが嫌いだった。
みんな酔っ払う。同じ話をする。シモネタばかりする。オチのない話をする。
皆は酒を飲む。僕は飲めない。
でもお金は割り勘。僕はみなのお酒の分まで払う。彼らの肝臓を壊すための支払いをしているようなものだ。
世の中に不平等というものがあるならば、それは、もはや男女の差ではない。その差は今は縮まり、それよりも、お酒を飲める人と飲めない人の差の方が大きいのではないか。もはや革命ではないか。酒飲めない人革命をすべきではないか。
そう僕はお酒が飲めない。だから、どうしてもいかないといけなくなった飲みの時は白けてしまう。
みながアルコールが入ってエンジンがかかりだした頃に、反比例するかのように僕の顔は白くなっていく。
つまらなさそうに話を聞き、携帯でツイッターを見る。つまらない話をしてるな、という顔で相手の顔を見る。
でも、今日、言われたのだ。昔からの友人との飲み会で。
「ヒデキって、飲みの時、ほんとにつまらなさそうにしてるよな」と。
確かに、僕はつまらない顔をしていただろう。なんなら、「僕はつまらない」という思いを他の人にも理解して欲しいほどだった気がする。
でも、その後に言われた言葉が僕の胸に刺さった。
「でも、みんなは楽しくない飲み会でも、楽しそうにしてるんだよ。お前は、それをサボってるだけだ」
僕はみなが楽しいと思っていた。お酒を飲んで楽しくなっていると思っていた。
でも、よく考えたら、お酒を飲んでも「つまらない」と思ってる人はいるんだ。でもその人たちも愛想笑いをして、酔っ払ったふりをして、何度も聞いた話を黙って笑って聞いているのだ。
そうだったんだ。僕は、自分だけが犠牲者だと思っていた。お酒を飲めない僕だけが取り残されていると思っていた。
でも、違った。僕は、サボっていただけなんだ。
僕はその言葉を帰り道で反芻する。僕は、酒を飲めないという言い訳で、飲みの席を楽しくする努力を10年以上サボっていた。
僕は、その事実を冷笑したかったけれど、うまく笑いの表情を作れなかった。
父の呪い
小学二年生頃のことだったように思う。
私はその年頃にふさわしく公園や街を駆け回っていた。いま思い返せばよく車などとの接触事故をしなかったな、と思うけれど、いずれにせよ駆け回っていたのだ。
そして案の定、怪我をした。あの頃の怪我なんて日常みたいなものだ。でもその時の怪我は普段の怪我よりも少し大きめの怪我で。
公園でつまずき、ガラスのようなもので足を切ってしまった。そして足から血が流れた。
僕にとってその怪我はなかなか大きな怪我で、特に流れる血が多かったから少し動転して。
慌てて家に帰った。その時は日曜日だったか、父が家にいて。その怪我を見た父は私に言った。
「そんな怪我たいしたことない。つばつけておけば治る」
それは父なりの優しさだったのかもしれない。気が動転して、慌てている私を不安にさせないための。
その後に母親が出てきてマキロンかなにかを塗ってくれて傷テープを貼ってくれた。
その父の言葉が私の中にすっと沈殿していて。私が怪我をした時はいつもこの言葉を思い出すようになってしまった。
- そんな傷、大したことはない
なんだか父に揶揄されたようなこの言葉で、私は自分の怪我や傷が大したことないんだ、と思い込むようになった。
だから、この何年後に、やけどをした時も慌てず自分で治療をしたし、自転車でコケた時も「こけちゃった」と気丈に笑っていたように思う。
それは呪いのようでもあり、また救いのジンクスのようでもあった。
私が仕事に失敗した時や恋愛で失恋した時も、心の奥からこの言葉は現れて。そして、父はこういうのだ。「そんなもん大したことない。つばをつけておけば治る」と。そして、私はその言葉に呪われながら、救われながら、その痛みを我慢し続けていきてきた。
でも、流石に、こうやって父がなくなった時は「たいしたことない。つばをつけておけば治る」とは思えなくて。
私は、つばをつけても治らない空白を感じ、号泣をした。