タクシーの中での電話
地中海のある島を旅行していた。その国ではUberは使えない。だからタクシーを使う。
時差ボケの頭をしゃきっとさせるように水を飲んで部屋を出る。ホテルのフロントに頼んでタクシーを待つ。タクシーを待つ間、日本で残してきた仕事のことを考える。距離が離れると思考も離れるというけれど、こんなに距離が離れても仕事のことが残っているなんて、仕事の粘着度が高いな、なんて思いながら。
数分でくるといったタクシーが10分ほど遅れてくる。でも気にしない。なぜならこのくには南国なのだから。
タクシーに行き先を伝える。片言の現地の言語で。タクシーはOKといって狭い道を走り出す。運転しながらタクシーの運転手がしゃべる。「何?」と聞くと、スマートホンに指を指す。
彼は僕と喋っているのではない。スマートホンを通じて誰かと喋っている。
- 喋りながらの運転か、危険だな
と思いながらうとうとする。なんせ時差ボケで昨日はあまり眠れなかったのだ。何より仕事のことが気にかかる。タクシーの運転手の会話に注意を払うほどの余力はない。
それでも、室内に聞こえる電話相手の声。現地の言葉なので理解はできない。でも、もし僕がこの言葉を理解できていたらどうしたんだろうな。人の会話をこうもどうどうと聞かされることはあまりない。何より誰と話しているんだろう。女性の声は、恋人の声にも聞こえる。すると女性の泣き声が聞こえてきて、電話が切れた。
電話が切れたタイミングで、聞いてみる
- novia(恋人?)
運転手が「ノー」と大げさな身振りで答える。運転の前をちゃんとみていてくれよ、と思いながら、僕は次の質問を考える。この言語は大学時代に習ったきりだ。他に単語は思いつかない。とはいえ、日本語であっても、この次の適切な質問は思い浮かばなかっただろう。
電話が再度かかってくる。絶妙なタイミングだ。
- mi nina
と男がいって、電話を取る。「nina」ってどういう意味だったか。そんなことを考えながら、電話の相手の声に耳にすます。
- あ、子供という意味だ
電話相手は自分の娘だったのだ。
運転しながらの電話は危ないな、と思っていたけれど、自分の娘への電話なら、なんだか許せるような気がした。もしかしたら彼は子供を家に留守番させながら働いているのかもしれない。あるいは、娘に悩みがあって、その話を聞いてあげているのかもしれない。
- nina(ニーニャ)
と僕はつぶやく。男はこっちをちらっとみてうなずく。泣き声はやんでいる。
僕も仕事のことは忘れている。
嘘の代償
「男ともだち」という小説でこのようなエピソードがある。嘘をついた日の帰りは果物を買いたくなる、という話だ。
人は生きていれば大なり小なり嘘をつく。「友達と飲んでた」「ごめん、いま起きた」「道が混んでて」「ごめん。明日リスケさせてもらえない?仕事入った」。
時には、相手が「嘘だ」とわかると思ったとしても嘘をつかないといけない場面もある。人は時にそれを必要な嘘、というし、あるいは、「良い嘘」とも言う。
しかし、嘘は気づかぬうちに人を蝕んでいく。嘘は、自分の体に1つ鍵をかけるということだ。そして、キーを忘れると嘘が体から出てしまう。
- あれ、先週は仕事っていってなかった?
- その時間は、あなた、Facebookでオンラインになってたじゃん
- お金、手術代にいるっていってたよね
だから、1つ嘘をつく度に、あなたはキーを1つづつ増やしていく。どんどん重くなる鍵の重み。
女がキッチンでお茶を入れながら言う。
- あなた、昨日は会社の飲み会っていってたよね。玲子が、渋谷であなたを見たっていってるんだけど
男はテレビを見ながら考える。テレビのシーンは頭に入ってこない。冷たい汗が背中を流れる。閃光が頭の中を照らし出し、真っ暗な闇が訪れた後に腹をくくる。
- いや。銀座で会社の人と飲んでいたよ
無意識に、手をつよく握っている。女がお茶を入れる音が聞こえる。そして、訪れる静寂。
- そう
女は言う。お茶をもって、机の上におく。男はテレビから目を離さない。女の方をみようとするが見れない。女も男の顔は見ない。
男は思う。昨日は、別の女と会っていたことに嘘をつき、今日は、いっていなかったと嘘をついた。利子がついたように2つに増えた嘘の重みを男は肩に感じる。肩のこわばりを感じる。
いつかまたこの鍵をさらに宝箱に入れて、宝箱のマトリョーシカができる。男は、全部を言いたくなる。「ああ、俺は昨日、渋谷にいたよ。昔の同級生の女と飲んで、道玄坂にいったよ」と。そこで「何もなかったよ」と嘘を重ねることも考える。目の奥が痛い。
男はすべてを言いたくなるが、言えない自分を理解している。テレビから笑い声が聞こえる。男の耳には入らない。女の耳にも入らない。
- そう
という女の声が男の頭で響き渡る。まるでごみ回収車に投げ込まれたゴミの音のように、悲しげで乾いた音のようだ。
hang in there
誰しも生きているとしょぼんとする時がある。
仕事で失敗した時や、好きな子からの約束が破られた時、あるいはお金をなくした時。あるいは、全部がいっせいに起こった時。
「なにやってんだろう」とつぶやく。「どうしてこんなことが起こるんだろう」と思う。「今は世界が敵だな」と思う
ただ、行動経済学的には、それらは確率の話で整理できる。「悪いこと」というのが毎日10%の確率で起こり、「とても悪いこと」というのが5%の確率で起こる時、200日の1度は「悪いこと」と「とても悪いこと」が起こることになる。すなわち、1年に2度は、そんな日があるのだ。そして、人は「悪かったこと」を記憶するので「悪いことが重なった日」だけを記憶に残る。残りの「悪かったことが1回しか起こらなかったこと」は、日常に忘れてしまうのだ。だから、人は「悪いことが続くな」とだけ、記憶している。
だから、辛い時は、「ああ、確率的に今が、たまたま悪いことが重なってしまった」と考えるのが良い。たまたまなのだ。何かに呪われているわけではないし、何か運が悪いわけではない。
あなたがそこで凹むと、そこから悪いことが続く。たとえば体調が悪い時に無理に出社するとミスを誘発するように、悪いな、と思った時は気分や状況を変えるのが重要なのだ。
こういう話がある。
賭博で生じる負けの半分以上は「もうだめだ」と思った時から生じるのである。つまり「もうだめだ」と思った時点で、集中力が途切れたり、気合が途切れ、それによって、そこから負けを呼び込んでしまう。
そういう時に求められるのは、気分を切り替えて「さ、頑張るぞ」と0の精神で立ち向かうことなのだ。
同じ経験が私にだってある。為替トレードをしていて、大きく負けた。そして「あー、これはダメだ」と普通ならしない場所での損切りをしてしまう。それによって、さらなる損失を産んでしまう。あるいは、意地になってナンピン買いをしてしまい、負けを膨らませてしまう。普段ならしない動き方をしてしまって。つまり、私が安定した状況だったらしなかった手を出してしまった。それによって、負けがさらに生まれる。こういうことだ
村上春樹のノルウェイの森にこのような文章がかかれていた。主人公が具合が悪くて遠くで入院をする女性に手紙をかく。大学生の主人公は何もない日常をおもしろおかしくかく。何も起こってないのに。そして、主人公は書くのだ。「何もない日常だけれど、このように書くと素晴らしい日々のように思えた」と。
この考え方から学ばしてもらおう。
何か失敗した時は、それを俯瞰してしまえばいい。物語の起承転結の転だ。物語には失敗やトラブルは欠かせない。そこからのリカバリーにカタルシスがあり、人はそこでリフッシュするのだ。そのように自分の失敗やトラブルを喜劇に変えてしまえば良い。
スティーブジョブスのスタンフォード大学での素晴らしいスピーチがある。
そこで彼は自分の会社を追い出されるエピソードをする。そして彼は表現するのだ。
Sometimes life hits you in the head with a brick. Don't lose faith.
- 時に人はレンガで頭を殴られたかのような経験をする。けれども、信じるものを忘れてはだめだ
自分の会社を追い出されたことのある人の言葉はなかなか深い。レンガで頭を殴られても、自分を忘れてはいけないのだ。レンガだ、レンガ。レンガで殴られることなんて人生でそうそうない。それでも、あなたは信じるものを信じ続けないといけない。
それは好きなことであったり、自分の生き方であったり、あるいは日常であったり、あなた自身を。
荒波の中に自分が一人、逆風に向かって立つシーンを思うかべる。そんなときに思い浮かぶのはこの言葉だ。
hang in there
日本語だと「頑張れ」と訳されることも多い言葉だが、英語の単語を見ると少し異なる。「そこにつかまっておけ」なのだ。すなわち、あなたが大変なことで凹んだり、「もうあかん」と言いそうな時こそ、「だめだ。そこで踏ん張れ。耐え抜け。持ちこたえろ」という言葉が求められる。それが「hang in there」なのだ。
村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」の表現でいえば「踊り続けろ。音楽が止まってもステップを止めるな」なのだ。レンガで殴られても、信念を忘れるな、なのだ。
と、自分にレンガで叩かれたようなことが起こったので、それを昇華するために書いた記事でした。Hey everybody, hang in there!
届いてしまったメール
年に1度だけメールをやりとりする人がいる。
年賀状ではない。お誕生のメールだ。相手の誕生日に僕がメールをして、僕の誕生日に相手がメールをする。1年に1度の往復。
そのフラジャイルで曖昧な関係は10年以上続いていた。
出会った頃のようにメールが届くとドキドキするような関係ではないし、誕生日だからといってお互い洒落た店に行く関係ではなくなったけれど、それでも、僕は彼女を尊敬していた。
その誕生日のメールというのは不思議な関係で。たとえ僕が彼女の誕生日にメールを送るのを忘れても、彼女が僕の誕生日には送ってきてくれる。すると僕は次に彼女の誕生日に送り返す。逆も同じだ。両方の続ける意思がなくなったら終わるメールだけれど、幸い、この10年細い糸はずっと続いていた。
でも、彼女の状況に少し変化があったんだろうな、という予兆はあった。
今年の頭にあった彼女の誕生日の時だ。
いつも誕生日のメールの後で「久しぶり?ご飯いこうよ」と僕は言った。そのようにして僕たちはメールを往復し、1年に1度くらい会ってきていた。
でも、今回、彼女から帰ってきたメールはそっけなかった。「いいね。ランチだったら」と返ってきて。僕は、彼女に恋人ができたのかな、と邪推する。でも、深くは聞かない。お互いにとって、それは何も良いことがないから。
だから、僕は、なんとなくの予兆はしていて。
でも、それでも心の準備はできていたわけじゃなかったんだ。
今回、僕の誕生日に彼女からのメールが届いた時に、ちょっとした動揺はかくせなかった。メールを空ける前に、それは僕にうったえてきた。
僕は、彼女となぜかメールでやり取りをしていた。LINEでもなく、Facebookでもなく。
だから彼女からメールが届く。その彼女のメールの差し出し人は、いつも見る名前とは違っていた。つまり名字が変わっていた。
僕はそれで悟る。彼女は結婚したんだ、と。
少し心を落ち着かせて本文を見る。そこには結婚のことは何も触れられていない。だから、彼女は気づかず送ったのだろう。
僕はそのメールになんて返信しようか、と思う。
- おめでとう
という気持ちはある。80%はおめでとうという気持ちはある。でも、20%は寂しい気持ちもある。
少しメールを返すのを遅らせようか。そして、しばらくしてから、おめでとうと送ろう。その時間差が、僕の動揺だと伝わるように。
合コンであったちょっと怖い話
今週のお題「ちょっとコワい話」
友達から「飲み会いかない」と言われる。よくあるコンパだが、今の時代「コンパ」なんて言わずに、飲み会という。
その日は特に予定もなかったし、何よりコンパは楽しい。昔はコンパは好きじゃなかった。女性全員と等分に話をしないといけないから気を使う。他の男性と喧嘩になるから、素敵な人がいても、自分がアピールしすぎてはいけないし。だから、コンパは好きじゃなかった。
でも、最近はコンパが楽しい。男女がお酒を飲む場、と捉えるようになったからだ。若い頃のようにガツガツした気持ちはない。だから、ようやく最近は飲み会が楽しくなった。
その飲み会は、ユウタの元彼女の主催するコンパだった。女の子たちは銀座の会社で働いていたので、場所は銀座になる。女性は僕たちと同じ年。良いのか、悪いのかわからないけれど、若すぎるよりは良いだろう。若すぎると話は盛り上がらない。
店は、ユウタが選んだイタリアンで、銀座のほどよく雰囲気がよく、ほどよくリーズナブルなお店。半個室で、ユウタらしい間違いのないチョイスだ。
セオリー通りに女性は5分遅れてきた。そして、セオリー通りに「遅れてごめんなさい」。女性は、5分遅れがマナーだと思っているふしがあるし、なんなら、男性でさえもそう思っている。
男性4人、女性4人の組み合わせ。こういうのは女性が1人さらに遅れてきたりするのだけれど、全員揃っていて好印象だ。
席は対面ではなくW字に座る。話は、自己紹介から、仕事の話、夏休みの話に好きな男性の話と、セオリー通りに進む。一般的な話から、より色気のある話へ。
そして、お酒のおかわりが4杯目くらいになったところで店の飲み放題の時間が終わる。
2次会にいくかな、と思ったけれど、ユウタはその話を出さずに切り上げた。どうやら、いまいちだったらしい。僕的には2次会にいってもよかったのだけれど。
じゃあね、と店の前で女性と別れる。こういう時の女性の心境はいかなるものなのか。
男性陣たちで二次会をして、反省会を楽しむ。この時間が一番楽しいかもしれない。ユウタ的にはタイプの子がいなかったらしい。
そして終電間際の電車で家に帰る。良い金曜日の過ごし方だ。
最寄り駅について、LINEを見ると、LINEでグループができていた。今日の飲み会のグループだ。ユウタが好みの子がいなくてもちゃんとグループを作るところが彼らしい。
いまや、個別でLINEのやり取りはしない。めんどくさいからだ。それよりもLINEで幹事同士が男女全員を入れたグループを作る。そうすると、女性にとっては個別に「ありがとうございました」を送る必要はないし、男性も個別で聞く必要はなくなる。
なんとなく、ぽちぽちと女性陣を友人に追加する。
あ、とその時、気づく。
1人の女性が、追加できない。既に友人だったのだ。血の気が失せる。
「誰だ。あの中に知り合いがいたのか?」
思わずその女性のアイコンをクリックする。顔は小さくてわからない。名前はAと入ってる。Aって子いたかな。
その子とのやり取りを表示する。
さらに血の気を失う。
彼女のことを僕はブロックしていた。やりとりは5年前だ。
うっすらと記憶が蘇ってくる。コンパかなにかで出会った子で、その日のうちに家にきた。でも、そこでは何もなく、翌朝、別れた。
でも、彼女からは「好きだ」「また会いたい」と重ねてLINEがきている。それにたまらず、僕はブロックしていた。
そんな女性があの場にいたんだっけ。
「やっと、再会できたね」と後ろからユウタの元彼の声が聞こえた。ユウタが元彼女と分かれた理由を必死で思い出しながら、僕は後ろを向いた。
デートのお作法
「女性は、いろんなデートの仕方をしってるけど、男性は1つのデートのやり方しかしらないんだよ」
- どういうこと?
「デートは、だいたい男性がリードするじゃん。特に最初のデートは。
場所とか時間とか、お店とか。それに、待ち合わせをどこにするか、メニューをどう頼むか。二軒目はどういくか、とか。
だから、男性は自分のデートのやり方をするの。で、女性はいろんな男性とデートにいくから、いろんなやり方を知るわけ」
- なるほどねー。じゃあ、男性は他の人のデートのやり方を知らないのか
「そうなんだよ」
- じゃあ、今度、男性とデートしてみたら?
「いいね。その場合は、じゃんけんで幹事を決めるのかな」
- でもその場合って、男女のデートの作法とは違った作法が必要になってきそうだよね、もはや。
「もはやそうだね。席の上座にどっち座るかとかも男女だと女性が上座だけど、同性同士ならどうするのかな」
- もはや、デートのやり方とかそういう話じゃないね。哲学論争になりそうだね。
デートの思い出はいつも雨
晴れたらしたいことがたくさんあった。
ピクニック、お散歩、テラスでランチ。
昔の歌で「晴れたらいいね」という歌があったけれど、その歌を聞くと私はとても寂しくなる。
山へいこう次の日曜
という歌詞を聞いて、私は「晴れても、私は山にいけない」と悲しい気持ちになった。
なぜなら、私の恋人は土木工事で働く人、すなわち土方の人だったから。だから、雨になると仕事は休む。その分、晴れていると休みなしで働いていた。
だから、私はその人とのデートはいつも雨だった。梅雨になると一緒にいれることを喜んだけれど、彼は、雨だとお給与が減るから、少しいらだっていた。
私のデートの思い出はいつも雨だった。部屋のベッドから窓に滴る雨水を眺めていた。
でも1度、晴れの日にデートをしたことがある。
「誕生日どうする?」と彼が聞いてくれたので、私は「晴れの日にデートしたい」と言ったのだ。
彼は、「わかった」と笑ってくれ、はじめての晴れの日のデートをした。ただの散歩だったけれど、そんなことがとても楽しかった。
傘をささずに彼と手をつなぎ歩くことができた。おしゃれをしながらデートをすることができた。太陽を浴びながら彼と話をすることができた。
「もしかすると前世は植物だったのかな。 こんな太陽がうれしいなんて」と私は太陽に向かって呟いた。
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今週のお題「晴れたらやりたいこと」