眠る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです。最近テクノロジーをテーマにしたものに凝ってます)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます あとスターも励みになります!

2人きりの部屋

男がドアを開けて中に入る。続いて女が「失礼します」といいながら部屋に入る。酔っているからか、足元がおぼつかない。

女はブーツを脱ぐのがめんどくさそうに、足のかかとでブーツをける。

男が先に部屋に入る。「コートかして」と男が女からコートを受け取る。ハンガーにかける。

部屋に入ると女が言う。「わぁ、キレイにしてるのね」

Alexa、ジャズをつけて」と男が言うと、「はい、わかりました」という声に数秒遅れて、部屋にジャズが流れる。

「座って。ソファーなくてごめん。ベッドの上にでも」と男がいいながら、冷蔵庫からワインを持ってくる。女は、ベッドに座りながら部屋を見渡す。モノが少ない部屋。白と黒でまとめられたキレイな部屋。

「ここにはどれくらい住んでいるの」

「まだ1年くらいかな」

男女はグラスを重ね合わせ、唇を重ね合わせる。

グラスのワインが半分も減っていないうちに、男は女のニットを脱がせようとする。女はバンザイのかっこをして、男が服を脱がせる。下着があらわになる。

「明るいわ」

「明るい方が、キレイな顔が見えていいよ」

「恥ずかしい」

「じゃあ目をつむっておいて」

男が女の肌に触れ、くびれを触る。

「きれいだよ」

「恥ずかしい」

男は唇を重ねながら、女の背中に手を回しブラジャーのホックを外そうとする。

Alexa、電気を消して」と、女がいうと「はい、わかりました」という声ともに電気が消える。

男はホックを外す手を止めて言う。

Alexa、空気をよんで」。

元ネタ

https://twitter.com/CoNoSyuNya/status/1077780043860869120

 

14106と言って

「14106」という言葉が世の中を騒がせるころ、僕は高校生だった。そして初めてのデートを経験することになった。


当時は、ポケットベルという数字を送り合う端末が登場し、学生たちはこぞって持ち始めた頃だ。それまでは、デートの誘いは、相手の実家に電話をしなければいけなかった。誰しも「親に電話を切られる」という洗礼を受けていたものだ。

愛しているという意味を込めた「14106(この数字の読み方を語呂合わせでアイ(1)シ(4)テ(10)ル(6)と読んだ)」という数字を送り合って。愛どころか、恋さえもわからないくせに。

その時の男子高校生のほとんどがそうだったと思うが、僕が当時、恋をしていたのはクラスメートで。それもかわいいからとかではなくて、自分と席が近かったとか、そんな環境要因で。

彼女は勉強もできた。焼きそばパンも食べた。僕は、お昼に学校の近くのパン屋さんに昼食を買いに行った。その時に彼女に「何かいる?」と聞くと、回答はいつも「焼きそばパン」だった。僕は、そんなに好きでもない焼きそばパンを2つ買って、1つは彼女に、そしてもう1つは自分で食べた。一緒のものを共有したかったから。もし彼女が「冷蔵庫が欲しい」といったならば、僕も同じ冷蔵庫を買っていただろう。

掃除の時間、2人で一緒に話をするタイミングがあった。その時、僕は「ボーリングにいかない」と誘った。ひねり受け身も何もないストレートな誘いだったと思う。そして、彼女は「いいよ」とOKをしてくれた。ボーリングらしいカーブのない誘いと、ボーリングらしい角のない返事だった。

ある日の土曜日の昼過ぎに、彼女とはボーリング場で待ち合わせた。

当日も家から彼女のポケベルに連絡を飛ばす。「73211354(むかうね)」と打つと、「1524(OK)」と彼女から返ってきた。

僕は自転車でそこに行き、彼女は車で送ってもらっていた。私服の彼女を見るだけでも僕はテンションがあがった。今ならば「ボーリングなのに、なんでスカート」と言っていたかもしれないけれど、当時は、スカートは天下無双だった。

ボーリングは2ゲームをしたように思う。どっちが勝ったかさえも覚えていない。ただ、スペアだかストライクをとった時の彼女の嬉しそうな笑顔をみて、「映画よりも、こっちの方が彼女の笑顔を見れるからいいな」と思った。メジャーリーグ2を一緒に見るよりもよっぽど良い。

ポケベルがない、という気づいたのは、その後だった。多分、クレープ屋でクレープをかった頃だ。僕はポケットにポケベルがなくなっていることに気づく。でも「ポケベルがない」なんていいたくなかった。かっこ悪かったし、何より、彼女との時間をポケベル探しに使うのはもったいなかった。

僕は、このデート中に彼女とはぐれないことだけを願った。はぐれたら終わりだ。

そして、その後、カラオケをして、僕たちは帰った。帰りは、彼女の親が迎えに来るといったけれど、「僕が送る」といった。そして、僕が乗ってきた自転車に彼女が乗り、僕は隣を走った。30分くらいの距離で、息が切れたけれど、楽しかったのを覚えている。

そして、無事に家に帰り、僕はその週末にポケベルを買い替えた。彼女には「新しい機種に買い替えたんだ」と言って、なくしたことは済んだ。

でも、それから彼女は少しよそよそしくなって。僕はデートでなにか失敗しちゃったんだろうなと思った。ボーリングが下手だったか、あるいは、映画をみるべきだったか。ホットドッグ・プレスでは「女の子の話は聞くこと」と書いていたのに、喋りすぎちゃったのかもしれない。

そして彼女とはもうデートをすることはなかった。

それから20年たって、高校生の時の同窓会が開かれた。二次会で彼女と話をする。

「あの時、デートで俺なにかしたっけ」と。

彼女は目を見開いて言う。
「あの後、『好きだよ』ってポケベルうったのに、返信しなかったのは、カズキくんじゃん」と。

僕はテクノロジーを呪った。ポケベルに既読機能がついていなかったことを呪った。当時にLINEがなかったことを怒った。自分の失われた青春を今更知った。自分をずっと苦しめていた灰色のモヤモヤの正体を知った。

そして、ポケベルはボーリングみたいったな、と思った。ボーリングは、一度、ボールが自分の手から離れてしまえば、それがどうなったかわからない。ガーターだったのか、ストライクなのか、スペアなのか。それと同じで、ポケベルも自分が送った後は、相手に届いたかを確認する方法はないのだ。間違った文字を送っても自分は気づけない。LINEのように既読も確認できない。メールのように送信文もみれない。

みんな今日も「このコースはストライク!」と信じながらボールを投げていたのだ。

余談。こんな経験があったから、今も、デートをした子のLINEが既読にならなかったなら、僕は「あの子は、ボーリング場で携帯を落としたのかもしれないな」と思うようになった。

ポケベルが残してくれたもの

2018年12月に、ポケベルが終了した。1990年代の後半に流行ったサービスで、お互い数字を送り合うことができるものだった。とはいえ、ポケベルは数字を受け取るだけの機能で送ることはできない。だから、僕たちは公衆電話からその番号を送りあった。

ポケベルはたくさんの思い出を僕たちにくれた。それまで、家には家庭の電話しかなかった。友人とコミュニケーションをする時は、そこに電話をするしかなかったのだ。家族がでることもあったし、それにそもそも家にいないとつながらないこともあった。

ポケベルはそんな問題を全部解決してくれた。外にいても受信できるし、「tel」と送れば、「今から電話するので電話でてね」という意味だった。僕たちがお互いに繋がり会えるようになった初めてのサービスだった。

1文字分を送り損なって暗号のようになった文字の羅列、笑顔マークを送れるようになった喜び、タイピング速度に負けない携帯の番号打ち。今では獅子舞やなまはげにもにた文化芸能のように思えるが、当時はそれが最先端だった。ポケベルに求められた「文章を12文字に収めるためのテクニック」に比べると、今の140文字なんて、無限のようだ。

ただ、ポケベルはなくなってしまうけれど、ポケベルの遺伝子は今でも引続がれている。そう、バイブ機能。メッセージが着信すると震えたポケベル。

あれから、PHSになっても、携帯になっても、スマートフォンになってもバイブが僕たちの着信の合図だった。もはや、お尻のポケットはそのバイブに敏感に気づくようになってしまった。あのバイブレーション機能を開発したのは、ポケベルの手柄だろう。

まるで車のエンジニアが、エンジンの音に敏感になるように、僕たちは、あのささやかな震えを手で、お尻で、ポケットでキャッチする。

まるで東京スカイツリーの耐震構造に、奈良の五重塔を感じるように、僕たちはあの震えの中にポケベルを思い出すのだ。

 

2050年、ついに他人の脳を体験できるように

2018年、Oculus Goが販売された。従来より廉価でVRを体験できるその端末によって、多くの人がVRを体験できるようになった。それによって、家にいながら、旅行を体験できるようになった。ジェットコースターも体験できるようになったし、ゾンビ退治など、現実の世界で体験できないことも、実体験のように感じることができた。身体が不自由な人でも、飛行機がのれない人でも、そんなことを気にせず世界中を飛び回れる。夢のツールだ。こんな事例もある。娘の結婚式がハワイで行われることになったが、寝たきりのためハワイに訪れられないお父さんが、VRを使って、ハワイの娘の結婚式をバーチャル体験することもあった。

しかし、それはまだ視覚と聴覚に臨場体験に限られていた。そして、2019年になり、2020年になると、グローブを装着することで触感もバーチャル体験できるようになった、。VRを通じて、渋谷の109にいるかのように陳列されている服を選び、触り、試着し、買えるようになった。3D対応も行われ、車にも乗り込めるようになった。単身赴任のお父さんが、実家に住む子供をいつでも触れられるようになった。

2030年代になると匂いも体験することができるようになった。VRに装着された匂い合成機が、VRに応じた匂いを発するようになったのだ。2040年代になると舌につけたセンサーが味さえも再現できるようになった。人はVRで、バーチャル五感体験をできるようになった。

人は家にいながら、世界中の町並みをみて、食べ物を食べて、動物とも触れ合うことができるようになった。旅行代理店は大打撃だったけれど、お金をかけずに世界を旅できるというそのエンターテイメントは、不景気の日本人に多く受け入れられた。「引きこもり旅行」という言葉が流行語大賞にもなった。幼い子どもたちを抱える親たちにもそのテクノロジーは受け入れられた。子供たちにとって社会は危険がたくさんだ。事故もあれば、病気もある。あるいは知らない人との遭遇も怖い。そんな時に、このVRテクノロジーで子どもたちを外界に振れさせることができた。

しかし、2040年代になってもまだ実現できていないことがあった。それは「他の人の五感」を体験することだ。それまでのテクノロジーによって、人は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感をバーチャルで楽しめるようになった。しかし、それは「自分の体験」であって、「他の人がどう感じているか」までは再現不可能だった。

しかし、2050年、ついに、そのテクノロジーが実現した。人の脳波をコピーし、自分の脳波にそれを同調させる。それによって人は他の人が、どう感じているかも感じられるようになった。

それは阿鼻叫喚を生んだ。人によって世界の感じ方が全然異なることがわかったのだ。うつ病の人が世界が味気なくみえるように、あるいは子供にとっては世界のすべてが色鮮やかに見えるように、人によって、感じ方は全然違うことがわかった。

「え!他の人の世界はこんなに鮮やかなの」と絶望する人が急増した。VRの世界では幸せな人の幸せな世界を体験することができた。しかし、VRを外すと、そこにはモノクロの辛い現実が待っていた。人の世界では幸せなことでも、自分のリアルな世界では、全く幸せに感じられなかった。

あまりの現実の格差に多くの人が自殺を考えた。こんな辛い現実を生きるくらいなら生まれ変わって幸せな人生を歩みたい。こんな人生いやだ。

その人たちの次の願いはこれだった。「あの世のバーチャル体験できるVRを作ってくれ!」、バーチャル自殺が2050年の流行語になりそうだ。

割り切れない2人 - paymo

 

Paymoがサービスを終了する。「2人の思い出も終了するのか」と思った。

彼女とは友達の紹介で出会った。5歳年上で、金融の仕事をする彼女。美味しいお店をたくさん知っていた。赤坂の中華、西麻布の寿司、四谷のフレンチ。

高いお店は、彼女がご馳走してくれた。「いつか俺が有名になったらごちそうするからね」といいながら、俺はその分、演劇の練習とアルバイトに励んだ。

安いお店は僕が出した。他にかかった費用はpaymoで割り勘をした。家で作るオムライスの卵代、2回もみたアカデミー賞受賞作の映画、朝食用のクロワッサン。

Paymoではそんな2人の割り勘ツールだった。たくさんの思い出が詰まっている。

別れは突然だった。「ごめん、好きな人ができたの」、そういって彼女は出ていった。「嫌だ」といったけれど、彼女は「ごめんなさい」というだけだった。

そして、僕には、Paymoでも割り切れない思いだけが残った。そして、彼女のpaymoのアカウントもなくなっているのを知った。

きっと、彼とは割り勘をしない仲なんだろうな、と思った。

2019年の抱負は「インターネットを使わない」

さて、信念だし、抱負でも考えるかな。

大げさなのは嫌よね。やっぱり気軽なやつを。絶対するようなことにする?じゃあ「息をちゃんとする」「ご飯食べる」とか?バカいってんじゃないわよ。

「しっかりとご飯食べる」だったらどう?小学校の書き初めじゃないんだから、副詞とか入れてもだめよね。もう少しちゃんとしたことを決めないと。

ツイッターをちゃんとするとか?いやいや、10年遅れてるわね。からの。からの逆にツイッターをしないとか。とかとか。

いやいやいや。私の生きがいのツイッターできないと死ぬかも。ご飯食べるか、ツイッターするかのどっちかにする?アホか。でも面白いかも。

あ、いいこと思いついちゃった。思い切って「インターネット使わない」とか。これなうくない?いけてる。超いけてる。世界見渡してもインターネット使わない人なんて2ミクロンくらいじゃない。アンドロメダ的確率よ。もうこれ決まり。インターネット使わない。

困ることあるかな?まずツイッターできなくて死ぬでしょ。Facebookできなくて死ぬでしょ。ジオシティ更新できなくて死ぬでしょ。つか、ジオシティ3月に終わるったつーの。何より、はてな使えなくて死ぬよね。私抱負で3度死ぬ。かっこE。

まじめに考えると、Amazonは大丈夫でしょ。近所のコクミンドラッグで代替できる。コクミンドラッグなの?ドラックなの?まぁどっちでもいいけど。

やっぱり、連絡が困るよね。何より仕事でメール使ってるし。仕事で使うのはOKルールにしよう。でないと、怒られちゃうから。

他、何が困るかな。あーLINE。LINEねー。LINE困るねー。広告しかこない私のエブリデイだけど、とはいえたまに同窓会の連絡とかくるしなー。同窓会は困らなくても、たまに友達の生存確認できないのはちょっと困るかなー。LINEない頃はみんなどうやってやり取りしてたのよ。あ、電話あるじゃん。電話はセーフ。じゃあ、用事あるやつは電話。あるいは手紙。住所はツイッターに公開しておこう。

目覚ましは?目覚ましはインターネットじゃないから大丈夫よね。

よーし。大丈夫そうだ。じゃあ、この今年の抱負、ツイッターに投稿しよう。って、早速つかってるやんけ

今週のお題「2019年の抱負」

 

 

下書きに残ったメール

下書きに残ったメールを眺める。週に何度かは見返して文章を修正するけれど、まだ「送信」ボタンが押されていないメール。切手をはられてまだ封をされていない手紙のよう。

毎回、見返すたびに「こういう表現がいいな」と書き直す。文章って本当に難しいな、と思う。夜みる文章と朝みる文章は違う。タイピングをしてかじかんだ手を「はー」っと息で温めながら、そんなことを考える。

彼女と会ってから2年以上もたつ。最初は、飲み会の席だった。いわゆる合コン。最初の印象は「キレイな人だな」という印象だった。その場でいろいろな質問をしてその場を盛り上げてくれたのを思い出す。夏のような女性だ、という印象だった。

僕はどちらかといえば冬な人だったから、「合わないかも」と思い、そのまま時が流れた。連絡先も交換しなかった。

再会したのは半年前だ。交流会で、たまたま見かけた。「どこかであったことがあるな」と思って、記憶をたどると「夏の人だ」と思い出した。ちょうど季節も夏だったからかもしれない。彼女も「ああ、あの時の」といってくれたけれど、覚えてくれていたか定かでない。

ただ、仕事のつながりもあるということがわかって、一度、ランチをした。実際に1度、仕事もした。ただ、やりとりは、主にメールだった。せめてLineのやりとりだったら、プライベートの話もできそうなのに、とそんなことを思った。最初にあった時にLINEを交換しておけばよかった、と。一度、メールのやり取りになると、どうもそこからLINEに移るのは難しい。

そんな中、彼女が転職することに決まったのは先月だった。

それから、何度か彼女にメールを送ろうと考えた。「転職祝いに食事はいかがですか」とか。でも、まだ送れずにいた。どうも仕事をした相手に、そんなプライベートな連絡をするのはなぜか気が引けたし、何より会ったのは3回だけだ。メールの回数はそれこそ20往復を超えるけれど。

だから、いつも下書きのまま、そのメールは眠っている。もし、これが手紙だったら黄ばんでいるかもしれないな。

そして、その日も、いつも通り「下書きに保存」を押そうと思った時だった。うっかり「送信」を押してしまった。「あっ」と思った時は遅かった。Gmailは「送信取り消し」の機能がある、と思い、そのボタンを押そうとした時には、もうそのタイミングは過ぎていた。

なんてことだ。

僕は1時間くらい、部屋の椅子の上で放心した。なんでメールだったんだ、と思った。Lineでも送信の取り消しができるのに。メールはもう取り返せない。

せめて送るなら、もっと文章を推敲してから送りたかった。とはいえ、と考えた。今日の修正文章の後でまだ良かったかもしれない。昨日までの文章だと、あからさますぎる。今日のメールでは「お元気ですか」という一文を付け足した。きっと、その一文がある方が良かっただろう。

そうして、一晩眠った。

起きて昨夜のミスを思い返した。気分が滅入りながら携帯の目覚ましを止める。その時、スマホGmailアカウントに未読メールのアイコンがついていることに気づく。

「もしかして」という期待とともにGmailをあける。もう眠気は吹き飛んでいる。

2通あったうちの1つは営業のメールだった。世の中から営業メールはなくなればいいのに。そして、もう1通は彼女からの返信だった。

「新しい職場で楽しんでいます。またご飯いきましょ」という文章とともに。

ガッツポーズをして、布団を抱きしめる。

取り消せないメールって悪くないかもしれない。送ったメッセージを取り消すなんて野暮だ。いった言葉は取り消せないように、メールも取り消さないくらいがいいのかもしれない。

何よりメールは、下書きにできるのがいいな。LINEにはできないもの。