答えは風の中にある
南国の夜風に吹かれながら考えた。28度ほどの暑さの中で海から吹く風はとても心地よく、風の魅力を体で受け止める。こんな大変が無料でできるなんてなんと世界は素晴らしいことだろうか。
真夏に朝、シャワーを浴びて、髪の毛が濡れたまま、窓を空けると、そこから入る風が湿った髪を揺らし、その心地よさは何事にも代えがたいという信念をナギサは持っている。その気持ちよさを超える心地よさが南国の風にはある。ビーチでビールを飲みながら浴びる風の格別さよ。
風を浴びながら考える。故人は「答えは風の中にある」と歌った。それはどういう意味なのだろうか。世界が愛する本にも、「砂漠や風と対話する」ということが重要なモチーフとして描かれている。村上春樹は、カポーティの短編の一行を利用し、自分の作品に「風の歌を聴け」とタイトルを付けた。
ナギサは風の気持ちよさに思わず風が力を持っているんじゃないか、と考える。
風に答えを聞いてみると何かわかるかもしれない、とナギサは風に耳を澄ませる。当たり前だけど海からの風の音が聞こえるだけで、何も気の利いたことは聞こえない。
これは「自分の中にある」という意味だろうか、と考える。風に耳を澄ませるということは、つまりは一つに集中するということだ。それによって雑念を追い払うと自分の心の中にあるものが見えてくる、というような。すなわち、風との対話は自分との対話とのモチーフになっているのかもしれない。
答え合わせをしようとボブ・ディランの意図をWikipediaで調べると
答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。
と本人の弁がある。つまりは、答えはここにはないといった社会警笛な意味合いを持つものならしい。なあんだ。
でも、やっぱり答えは風がもってるんだ、とナギサは酔っ払った頭で考える。「風の便り」「風のうわさ」という慣用句にもあるように、昔から風は何かを伝える手段として表現されていた。科学的に風の意味合いが解明する前は実際に、風が人の言葉や何かを伝える力を持っていたと思っていても不思議ではない。
万葉集でも
君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く
と、簾が風で動いた状況を見て、恋人の訪問と繋げるなんてきざなことをしている。
ナギサは考える。そうだ。ずっと前から風はあったのだ。数万年も前から存在している風だ。実際は空気、NとO2とその他だとしても、いずれにせよ風は昔からある。そして、昔からこの風に向かって人々は多くの願いね思いを投げかけてきた。遠方にいる夫に思いが伝わるように、故郷の母に願いが届くように、戦争の主に危険を伝えるように。
そんな風は、きっと賢いのだ。きっと答えは知っているに違いない。隣で寝ている恋人との行く末もきっと風なら答えをしっているに違いない。ナギサは考える。うだうだと私1人が悩んでいても仕方ないのだ。いつか風が答えを運んできてくれるまで、行けるところまで行こう。