思い出がとどまる町、お台場
お台場という場所がある。海沿いの埋立地だが、多くの遊戯施設が作られており、東京のちょっとした観光スポットとなっている。
行き方はいくつかあるが最たるものはゆりかもめというモノレールだろう。海の上を、レインボーブリッジを渡り、東京大陸に繋がる。
恋人たちはお台場に訪れる。デートに訪れる。観覧車に乗り、フジテレビを見上げ、ジョイポリスではしゃぐ。
お台場の記憶は残酷だ。楽しかった恋人との記憶をその場所に押しとどめる。きっと海での隔たりによって、その地の思い出は、お台場にとどまり続けるのだろう。
何よりお台場は日常で行くことがほとんどない。もし、この思い出が渋谷や新宿の思い出ならば、通学や通勤、あるいは友人たちとの飲み会の記憶によって、恋人との記憶は上書きされていくだろう。
しかし、お台場の記憶は上書きされない。ふと、国際展示場におりると、過去の思い出が蘇ってくる。食べ物やフェスや買い物の記憶がぶわっと蘇る。まるで、思い出がシャボン玉に閉じ込められいて、それが破裂したかのように。過去に連れ戻された私の脳は一時の麻痺を起こし、歩く歩く一歩さえも危うくなる。なんだか甘酸っぱい、そして、ささくれた思い出が、ずっとお台場を歩く靴の中に入ってくる。じめじめ、と。
だから俺はお台場は嫌いだ。
きっと別れた恋人と行くくらいがちょうど良いのかもしれない。美化されすぎないし、毀損されすぎない思い出となる。
もっとも、恋人じゃない人に「お台場いこう」と言っても「遠い、嫌だ」と言われるのだけれど。