寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

夏の終わらせ方

夏の終わらせ方には礼儀があるというのは意外と知られていない。夏は、放っておいて去るものではない。送り出す必要があるのだ。クリスマス後のツリーを片付けするクレーンのように。

まず、夏を終わらせるには、夏を存分に楽しまないといけない。夏を楽しんでもないのに、夏を見送るのは、乗っていない電車から降りるようなもので、形而上学的な問題を孕んでしまう。かき氷を食べて、海に行って、かき氷を食べて、夏祭りにいって、かき氷を食べないといけない。

そうすると、いつか夏のトバリが落ち始める頃合いがくる。夏が終わるのは9月や10月などといった期日が決まっているわけではない。頃合いがあるだけなのだ。その人によって、あるいは、年によって夏の終わりは異なる。まるで、青春時代のごとく。

偉人は、

誰かが落とした 麦藁帽子が波にさらわれて 夏が終わる

と歌った。きっと90年代の湘南の夏は麦わら帽子が波にさらわれて夏が終わるのである。

いまは文明の利器が発達しているので、iPHoneが波にさらわれて夏が終わるかもしれない。ひと夏のアバンチュールの連絡先と共に、海の藻屑と消えてしまう。うける。

あるいは、銀杏並木の銀杏の色づくことに秋を感じるかもしれない。あるいは、いつしか「今日は冷房をつけてないな」ということに秋の存在に気づくかもしれない。または場末のラーメン屋で冷やし担々麺がメニューから外される頃かもしれない。バーでのモヒートと一緒に喉に流し込んだのが夏だったのかもしれない

いずれにせよ、人はどこかで夏と決別する。「あ、終わっちゃったんだ」と気づく。それは避けられない定めであり、次の夏に会うための手段である。「あ、夏がいっちゃったんだ」と、不在の存在に気づいて、初めて、夏は去っていく。そして、私たちは秋を迎え入れることができる。翌年くる夏の布石として。

だから悲しんではいけない。「夏は去ったんだな」と独りつぶやこう。誰も聞いていないところで。聞いているところでつぶやくとそこそこ顰蹙をかう。そして、夏の思い出を思い出そう。かき氷を食べた思い出やかき氷をこぼした思い出などを堪能しよう。

学生の頃の恋愛を思い返すがのごとく、脳裏に浮かべ、そして、海馬で夏を味わう。送り出すのに涙はいらない。拍手もいらないし、胴上げもいらないし、三三七拍子も一本締めも、ドッキリもいらない。そっと、思い出とともに夏を送り出そう。できれば線香花火でしめくくれると最高だ。

その儀式を終えるときちんと夏は去っていく。そして、夏は秋と冬の背後に隠れて、じっと来年の出番を待っている。とびきりの暑さを伴って。