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寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

花咲く花屋

「すいませーん」

店先から声がする。花束を包んでいた手を止めて、入り口を覗く。スーツを着た男性が立っている。

「すいません。何か花束を見繕って欲しいんですが」とスーツは仰る。40代か。少し頭に白髪が見えるが、ダンディなおじさまだ。日焼けした笑顔が美しい。

「かしこまりました」と男性の方に向かう。その時に、私は気づいてしまう。パンツのチャックが全開であることに。

普通のパンツならば相手が立っているとそんなに気づかない。しかし、グレーのパンツに黒い何かが見えていて、これは、比較的アウトな露出であり、いわば、ポケットのハンカチーフなみに、パンツから下着のようなものが見えている。これで千代田区を歩いてたら歩きタバコなみに補導されそうだ。

しかし、私には、そこで「チャック空いてますよ」という勇気は出せなかった。いや、明治時代はともかく、この平成の世の中に、そんな勇気を持った人間は現代の日本にいないだろう。「花束が欲しい」という問いの返答に「チャック空いてますよ」とは、禅問答でしかない。私は、自分の挙動不審をこらえながら回答する。

「どのような用途でご利用されますか?」

「彼女が誕生日なんだ。予算は5000円くらいでどうかな」

誕生日に、チャック空いているのはまずい。私の焦りが尚更高まる。きっと彼女もびっくりするだろう。花束の前にこのチャックのオープン具合に気づくに違いない。しかしそこでは彼女も指摘できないだろう。なぜなら花束をプレゼントしてくれているからだ。まずは「ありがとう」というのがスジだ。そして、そのままなし崩し的に食事に行くことになるだろう。なんならフレンチだ。そこで、「予約した俺だけど」と軽やかにいう紳士。軽やかに顔を出すパンツ。これはフレンチのマナーにも対応法がないのではないか。

私でこの負の連鎖を止めなければ。しかし、タイミングをつかめないまま、業務を進める。

「彼女さんがお好きな花や色はありますか?」

「そうだなー。黒が好きなんだけど、黒の花なんてないよね?」

まさか、この黒いパンツは彼女が好きだから黒にしているのか。だとすると、これはもしかしたら、わざと出しているのか?だったらグレーのスーツでなくて黒いスーツであるべきだし。私は混乱する。

「濃い紫の花ならあるのですが、黒いのはないですね。すいません」

「いいよ。ではおまかせする。バラが好きかも」

「かしこまりました」。バラバラとチャックからいろんなものがでてくるよ、とつぶやきながら、花束を作り始める。

その間も、チャックのオープンをどう指摘するか悩む。チャック空いてますよ、というべきかどうか。いや、できれば歪曲に伝えたい。できれば自分に気づいて欲しい。こんな素敵な日に「チャックが空いてる」と指摘されたら彼も嫌だろう。

どういう手段があるだろう。「チャックが空いていましよ」という花言葉の花があればいいのに。うちが「チャックワン」蘭を扱っていたら、それを花束にいれるのに。あるいはオオイヌノフグリ、、、。

は!気づいた。かなり股下から花束を渡せばいいんじゃない。すると目線が下にいくから、あの紳士も自分のチャックに気づくはず。

でも、おかしいでしょ。せっかくの花束が地面から急上昇するなんて。redbullのPVか。ひとりでボケて突っ込んでいるうちに、花束はできてしまう。

「こちらでいかがですか?バラをメインにしてみました。あとは季節の花を添えています」

「いいね。これでお願いします」

かしこまりました、と言いながら、茎を切って揃えて、脱脂綿を入れて縛る。

「では5000円です」

その瞬間、「そうだ!」と名案を思いつく。男性が財布からお金を出している時にちょっと小細工をする。

「5000円ちょうどお預かりますね。メッセージカードを添えられますか?」

「いいですね。お願いします」

そして、ペンを渡す。紳士は少し考えて、さらさらと何かを書く。それを私は受け取り、花束に貼る。男はペンを返す。それから一世一代の演技だ。

「あ、すいません。ペンに少しだけユリの花粉がついていました。ユリの花粉は落ちにくいので、水で洗っていただいた方がいいかもしれません。おトイレをお使いになられますか?」

トイレから出てきた男のチャックは無事に閉まっていた。良かった。花屋は恋を花咲かせるのも仕事なのだ。