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寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

四角い穴に 丸い杭を打ちこむように

あるカメラマンがいた。スカイダイビングをするがごとく、カメラと共に飛行機から飛び出した彼。しかし、他の人と違ったのは、彼はパラシュートを付けていなかったということだった。

彼はどんな思いでシャッターを切り続けたのだろうか。彼は時速100キロを超える落下速度の中で、シャッターを切り続けた。地面に激突するまで。

あるいは、自分たちが乗っている船が沈没するとわかっていても、演奏する人たちがいた。バイオリンを筆頭とする8人のバンドだった。

曲は「主よ、御許に近づかん」という曲だった。その曲は沈没する船の中でパニックになっている人たちを落ち着けたという。

映画タイタニックでも触れられたので知っている人もいるだろう。あの演奏家たちは実在の話を元にしている。

あるいは、画家ルノワールの息子のジャン・ルノワールは死ぬ当日まで小説を書いていた。数学家のオイラーも死の当日まで数学を書いていた。

彼らはなぜ死を目の前にして、撮影をし続けることができたのだろうか。あるいは演奏し続けることができたのだろうか。

1つは、彼らが自分のしていることが生きるというよりも大切だったのだろう。それが癒やしであり、生きがいであり支えであった。そのため死ぬ時でさえも、それが彼らを助けた。

ただ、私はこういう夢想をしてしまう。彼らは、死などを超えた別の世界が見えていたのではないかと。オカルト的なことを言いたいのではなく、ただ、可能性の話として。

彼は、まだ誰も撮影しなかった風景を撮影したかった。あるいは、彼は音楽というものの価値を最大限に発揮させたかった。または、誰かは物語を、あるいは数学を発展させたかった。

それを求める彼らにとって死は関係ない。「自分の足が止まるかも」と危惧することは意味がない。なぜなら、「止まるまで進むしかない」のだから。止まるまで進むしか選択肢がなければ、人は悩まない。ただあるき続けるのだ。

夏目漱石の名作「夢十夜」の第六話を思い出す。運慶という彫刻家がいる。彼は木を削って、仁王の像を作っている。しかし、彼は木から「仁王の像」をほっているのではなく、仁王が木の中に埋まっており、それを掘り起こしているだけなのだ、という。

世の中もそんなこともあるのかもしれない。世の中には、まだ掘り起こされていない運慶がたくさんいて、それを誰かが人を使って掘り起こしているだけなのではないか、とという話だ。

それに重ねて、Appleの古い伝説のCMを思い出す。そこでは、このようなコピーが使われていた。

四角い穴に 丸い杭を打ちこむように 物事をまるで違う目で見る人たち

もしかすると、彼らが見ている世界は、我々の見えている世界と異なるかもしれない。そして、あなた自身も他の人が四角い杭を打ち込むところに丸い杭を打ち続けているのかもしれない。