ブータンから見る幸せの難しさ
ブータンは「幸せの国」と言われている。
それは、国王が提唱した「国民総幸福量(国民がどれだけ幸せか)」という概念が有名だからだろう。
ただ、留意いただきたいのは、ブータンが「その指標で1位だった」というわけではない。現状、「世界一幸せな国ブータン」を目指しているという段階だ。
そのため、国は必ずしも幸せとは言い難く、以下のフランス通信の記事によると、貧困などの問題も指摘されている。
»「幸福の王国」ブータンで苦しむ若者たち 写真7枚 国際ニュース:AFPBB News
また、以下の大和総研の記事によると、ブータンより日本の方が「幸せ」を感じる人が多かったというアンケートも紹介されている。
»幸福度は役に立つか? | コラム | 大和総研グループ | 市川 正樹
そう、幸せを追うというものは簡単なものではない。
そんな中、録画していたフジテレビの番組「ノンフィクション」を見ていた。「ブータンで愛の告白」というサブテーマで、ブータンで仕事をする日本人女性の恋愛等が描かれていた。
その中で、21歳で妊娠をした女性が紹介される。彼女は、「世界一の母親になる」という目標を持っている。
この「世界一の母親」という考え方が非常に示唆に富む点だった。
世界一の母親とはどのように定義されるものか。寛容さか。愛か。あるいは、相対的に評価し得るものなのか。なぜ彼女は「良い母親」ではなく「世界一の母親」を目指すのか。
この疑問から、ブータンの目指す「世界一の幸せの国」への疑問が生まれた。
この「世界一の幸せの国」という目標が、単に「幸せの国」ではなかったのはなぜなのか、と。
それは、幸せというものの難しさを表しているのかもしれない。「幸せ」というものは自分の評価でしか図ることができない。外から見れば不幸せな人でも幸せな人もいれば、どれだけ容姿端麗、頭脳明晰でお金をもった人でも不幸せな人はいる。あるいは、人は常に幸せと不幸せの感情を抱え込んでいる。幸せというものは、定義できず、曖昧で数値化できない。
そういう点で「幸せになること」を目指すのは容易と同時に難しくもある。見る観点によって幸せ/不幸せは変わるし、昨日、今日で幸せかどうかは変わる。
そのために、ブータンの目標は「より良い幸せを目指す(つまりは世界一を目指す)」という姿勢自体を常態化させるものである必要があったのではないか。定義や数値化ができない指標に対しては「より良いものを目指す」という相対評価こそが正しいあり方ではないか。
そのためにブータンは「幸せの国」を目指すのではなく「世界一幸せの国」を目指す必要があったのだ。21歳の女の子は「良い母親」ではなく「世界一の母親」を目指すようになったのだ。