寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

誕生日なんておめでたくない

「お誕生日おめでとう」という言葉に違和感を感じていた。

そういうと、こじらせた「中二病」のように聞こえるけれど、僕にとっては、結構、重要なテーマであった。

どういうことか。

人は言う。「お誕生日おめでとう」と。それの「何がめでたい」のかがいまいちよくわからなかったのだ。

正確にいえば儀式として「おめでとう」という慣習があるのはそれは良い。人は生誕祭を祝うのは古来からあったため、その習わしとは理解できる。ただ、言われた方は別に、それほどめでたくないのではないか。

というのも、誕生日は、「自分で勝ち取った記念日」ではない。

「たまたま、1年に1度、回ってくる日」である。だから、それは「大会で優勝おめでとう」とか「賞おめでとう!」とかの「おめでとう」とは質が異なり、「ほっておいてもくるおめでとう」というか。

こういうと人はいう。

「いや、あなたを生んでくれたお母さんへの感謝のおめでとうなんだよ。人を生むというのは大変なんだから」と。

それは、理解できる。しかし、そうすると自分を祝うのではなく、親を祝う必要があるだろう。自分を祝う必要はない。何も、何億の精子の戦いを勝ち取ったことを20年も30年も祝い続ける必要はないだろう。それだと、路肩の森羅万象におめでとうを言う必要にかられる。

こう考え、「お誕生日うれしい!」という気持ちなったことがなかったのだ。だから、誕生日に「おめでとう」と言われても、コンビニの「いらっしゃいませー」という同じ程度の挨拶にしか聞こえなかった。なぜなら、再三となるが、僕がその誕生日を勝ち取ったものではないから。おめでとうを言う対象が何かわからなかったからだ。

しかし、最近、気づいた。

誕生日は、「1年間生き延びた」ということの証でもあるのだ。

この世知辛い世の中で、1年生き延びるというのは、実は結構タフですごいことである。確率論的には、もちろん「生き延びる確率」の方が高いのだけれど、とはいえ、1年をちゃんと生きるのは簡単ではない。

そう考えると1年というマラソンを走りきったということへの「おめでとう」とも捉えられるのではないか。そう考えると、たしかに「めでたい」という気はしてくる。

最近、このように、誕生日の「おめでとう」を捉えるようになって、はじめて「めでたい」と自分の誕生日を祝えるようになった。

皆様と一緒に、今日を1日、生き延びれたことをおめでたく思います。