祈り
日本で生きていると、漢字を使った訓話を耳にすることがある。
たとえば、ある格闘技の先生は言う。
- 武道の武という字は「矛(ほこ)」を止める」と書く。すなわち、武道とは争いを止めるために手段であったのだ
- 忍というのは、心の上に刀を置く、と書く。すなわち、忍耐とは、我慢することではなく、いつでも戦える刃を持ちながらも、表に出さないことを言うのである
といった風に。
あるいは、人はこう歌う。
- 愛は真心で、恋は下心
心という字が愛は真ん中にあり、恋は下にあるから、とか。
そのようなたとえを聞く度に「なるほどなー」と思いながらも、いかようにでも解釈できる漢字のずるさと面白さを混ぜ合わせた感情を抱く。
ただ、最近、そのような話から発見をすることがあった。それがこちらだ。
- 念じるとは「今を心にする」と書く。つまり、念じるということは、今だけのことしか考えないようにする、ということだ
という話。
これは禅の話の流れで出たもので、禅とは「今、ここを生きる」というような考えを強くもった考えだ。それによって、むやみに過去のことを後悔したり、未来のことに思い悩まないことで心を自由にさせることができる。
つまり、「祈る」「念じる」という時は、一般的に「未来」を考えてしまう。お正月なら、初詣で「今年はなになにができますように」とお願いするように。
しかし、本来の意味を紐解くと、「今、一心に心を集中させること」の方を重視させる。祈るとは「いま、ここに集中すること」なのだ。
すなわち、お願いする対象よりも、お願いする行為に価値があるのだ、きっと。あなたが何に祈ろうとも、祈ったという行為が大事なのだ。
そういえば、それに関して、ちょっとしたジョークでこのような話を聞いたことがある。キリスト教の国と日本では、うつ病の人の割合が違う。
なぜなら、それは、キリスト教の人は日常的に祈る習慣があるからだ。祈る時に、人は自分の心と向き合う。それによって、人は鬱から逃げ出すことができる、といったように。
ちょっと今夜は祈ってみようかな。