死にゆくための儀式
「人は無くしてから、その価値に気づく」というのは事実だろう。
今回も北朝鮮の指導者の兄弟の死に関して、多くの評価がメディアに溢れ、彼の死を悲しむ声が聞こえた。死ぬまでは、ほとんど表に出てこないのに、死ぬと急に表に出てくる美談。
これは常に繰り返される光景だ。芸能人でも、あるいは、自分を盾にして子供を守ったおじいちゃんも。亡くなってから「惜しい人をなくした」と言われる。
これは、でも、そういうものなのだろう。人は無くすまではその価値を気づかないものなのだ。
もし死ぬ前に、人々の良いところをピックアップしていたら、メディアは扱うネタで溢れてしまう。あるいは、我々はあらゆるものに感謝し続けないといけない。それは、なんともいきづらい。
だから、我々は、それをなくすまでは、その価値は眠らせておく。
同時に、死者は美化されるのも事実なのだろう。良いところだけがピックアップされる。誰も死んだ人の悪口はあまり言いたくない。それよりも、良かったところを言い合いたい。
人は生きている時に他人をほめないが、死んだ途端にその人を褒めるのだ。でも、それが摂理なのだろう。うまく生きていくための。
そうやって人は「大切な人がなくなった」という事実をたくさん抱えながら生きていく。毎年、新しい「大切な人」をなくしていく。
そして、70歳や80歳になったら、「ああ、自分もそろそろ死んでいいかな」と思うのだろう。なぜなら「大切な人があちらの世界でたくさん待っている」から。
嫌な人たちが待っている世界にはいきたくない。だから、人は死者をいい人にするのかもしれない。
そうして、人は自分の大切なものをなくした感覚だけをどんどん貯めて死の準備に向かう。どこかで、その大切なものの喪失が飽和をして、分水嶺を超えた時に、人は死の準備ができる。
たくさんの良い人がなくなったのだから、自分もそろそろ後に続こうかと。
だから、人が逝去して美談で語るのは、自分が、人類が死にゆくための儀式なんだろうな、と思うのだ。