見えない世界をみている彼ら
小学生の頃、「新しい発音って世の中にあるのかな」と考えたことがあった。
つまり50音で表現できない音だ。英語の授業で「ヴ」という発音を知って、「他にも、知らない発音があるんじゃないか」と思っての発想だった。
そして、自分でいろんな発音をしてみたけれど、全部50音でカバーできる音だった。
「日本語はすごいな」と思った。全部の発音を50音でカバーしている。
その自分の考えが間違っているのに気づいたのは英語をきちんと学びはじめてからだった。LとRの発音の違いは日本語では表現できないものだった。「Ankle(足首)」と「Uncle(叔父)」の違いもカタカナでは「アンクル」にはなるが、実際は日本語にはない母音の違いで発音は違うものになる。日本語では表現できない音が世界にあることを知った。
さらにアラビア語を学んで、想像を超えた発音が存在するのを知った。たとえば、アインという喉を使った音は斬新すぎた。
世の中には50音で表現できない音がたくさんあるのを知る。僕は、自分の持っているフレームワークで世界をみているに過ぎなかったのだ。
それって音にかぎらず同じことは言えるのだろう。
人は自分の持ってる尺度でしか世界を見れない。たとえば、建築に詳しい人が街を見れば、その建築を楽しむことができるが、その知識がないと「この建物はきれい、きれいじゃない」などの感想になってしまう。
カメラマンは構図で街を見るからこそ、ユニークな写真を取ることができる。彼らは常人が見えない切り口で世界をみている。絶対音感を持っている人には街の音が音符にきこえるし、人によってはその音が色で見える。
人は自分の持っている尺度を超えて世界を見ることができない。
だからこそ、実はこの世界が3次元でなかったとしても僕たちは4次元や5次元を感じることはできない。もっとも犬や猫がそれらの世界をみている可能性は否めないけれど。だって、3次元の生き物とは思えないユニークな動きをするものだからだ。
そういうことで、この文章が言いたいことは、動物が奇妙で滑稽な動きをしていても、笑ってはいけないということだ。彼らにはあなたが見えていない世界が見えているのかもしれないのだから(オチに困ってむりやりつけた動物の行の巻。ちゃんちゃん)。