デジタルで表現されてしまう好意
写真が好きだった。街を撮った。自然を撮った。そして、人を撮った。
何より人を撮るのが好きだった。友達を撮り、飲み会でみんながはしゃいでいるシーンを撮り、そして恋人の日常を撮った。
ナオは、沖縄生まれらしくきりっとした顔つきで、写真映えする顔つきだった。
だから、僕は手があけば彼女の写真を撮った。ハーゲンダッツのアイスクリームを食べているシーンでは、彼女がアイスをこぼした瞬間を撮った。
ハワイの旅行では酔っ払って真っ赤になっているナオを撮った。
原宿を全力失踪しているナオを撮ったこともある。ディズニーではイースターエッグをみつけてはしゃいでいるナオの写真がお気に入りだ。
ある時はナオと喧嘩をした。彼女がいきたいコンサートがあり、僕は興味がなく「コンサートなんてなぜ行くの?いく意味なんかないよ」といってしまった。それでナオは怒ったけれど、その怒った顔が愛おしくて、またその顔を撮った。
寝ている顔、悩んでいる顔、寝起きの顔、テレビを見ている顔、運転している顔。あらゆるナオを撮った。
関係が2年ほど続いた後だった。ナオは旅行先のバーでこう言った。
「最近は私を撮ってくれないね」
僕は言葉を失った。確かに最初の頃はあんなにナオの写真を撮っていたのに、最近ではほとんど彼女を撮ることはなくなった。それよりもモノや街を撮っていた。
彼女への愛情は変わっていないと思っていた。
でも、もしかすると僕は被写体としての彼女には飽きていたのかもしれない。まるで自分の好意がデジタルに表現されているようだった。昔は1日1000枚分あった好意が今は3日に1枚の好意に変わってしまっている。
僕は悩んだ。僕は今でもナオを愛している。でも、写真としてナオをこれ以上取り続けたいと思わない。もうありとあらゆるナオを撮ってしまった。撮りたい対象でもないものを撮ることは僕にはできない。
そこで僕は決意する。
僕はカメラを叩き割る。写真を撮らなければ、ナオも気にすることはないだろう。3日間、悩み続け、僕はカメラを割る決意をする。売るのではない。叩き割るのだ。カメラと決別するため。
けれど、結局、僕のカメラは割られることはなかった。
僕の眼であるレンズが割られる代わりに、ナオの目が割られた。
- 私の目が見えなければ、あなたが何を撮っているかわからないでしょう。もしかすると私を撮ってくれているかもしれないし。もう『自分が撮られていない』と悲しむこともなくなるでしょう。だから、あなたは好きな撮影を続けて