寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

足りない匂い

久しぶりに大学に用事があった。卒業証書をもらう必要があったのだ。

事務所で証書をもらったついでに大学を歩く。5年ぶりの大学はあまり変わっていない。

中庭と生協、そして、食堂。人が少ないだけで何も変わっていない。

校舎に入ると、校舎の匂いがすっと入ってきた。その刹那、まるでタイムスリップしたかのような錯覚に襲われる。匂いに引きづられて過去の思い出が溢れ出す。

当時のなんだか行き詰った感覚、サークルの楽しい日々、試験前の眠気。そんなものが溢れ出す。僕はその溢れる記憶を一心にうけながら、倒れないようにベンチに座る。

数分ほどそうしていただろうか。あの匂いとあの頃の記憶を堪能する。今起こったことを思い出す。僕は今、あの頃に戻っていた。

匂いが一番、人の記憶に残っているというのは本当だったんだ。まるで自分の記憶の中に、こんなにも情報が残っていたなんて、と驚くほどあの頃の記憶が溢れてきた。匂いが僕の思い出を記憶の沼から引き上げる。

同時に足りない匂いを思い出す。この校舎に足りない匂い。

僕が4年間、ずっと一緒にいた女性。彼女が付けていた香水の匂いが、この校舎の匂いからは消えていた。

ない匂いだけを感じることができる。禅問答みたいだ。まるでカレーにコリアンダーが欠けているような。僕にとってこの校舎にはあの彼女の甘い香水が必要だったんだ。

顔を明瞭に思い出せなくてもあの彼女の匂いは、いまも匂ったら思い出すだろう。でも、この校舎にその匂いはない。

昔の歌で、恋人がいなくなって、「いつもよりも眺めがいい左」に戸惑うという歌詞がある。いつも左にいた彼女がいない。だから、その分、眺めのいい左に違和感を感じる。

僕は同じように、あの匂いのない校舎の匂いに戸惑う。どうして彼女はいまここにいないんだ。どうしてあの匂いがここにはないんだ。

僕はきっと帰り道にデパートに寄るだろう。そして、彼女がつけていた香水を聞くだろう。その夜、僕はその香水を少し布団にかけて眠るだろう。

男性が女性向けの香水を買うのはプレゼント用だけじゃない。自分のために必要なこともあるんだ。まるでターメリックを買うように、その匂いが必要になる時があるんだ。