眠る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです。最近テクノロジーをテーマにしたものに凝ってます)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます あとスターも励みになります!

異国でみるべきはツイッター?インスタグラム?

遠い異国の首都からさらに飛行機を乗り継いでたどり着く街で宿をとる。

「とれるチケットならどこでもいい」と考えた旅行だったけれど、思ったよりもワイルドな街に降り立つことになった。英語もうまく通じないし、そもそも空気だって日本と違う。水が国によって異なるように空気だって国によって異なるものとなる。アジアの島国に降り立つ時に南国の匂いが鼻孔を驚かせるように、異国の空気は肺を驚かせる。「なんかきたよ」と肺があわてて声をあげる。深呼吸して、落ち着かせる。「大丈夫、この空気は吸っていいんだよ」。何度か深呼吸すると肺にその空気が馴染み、身体が少し落ち着いてくる。それでも、脳はなかなか現地の国になじまない。

一人が好きだ、という人でも異国の地に一人でいると、その寂しさには耐えられないことが多い。これは病気にも近い。風邪をひくと思考回路が落ちるように、孤独は人を不安定にさせる。部屋のどこかでなくした指輪を探す時に、あなたはいろいろなものを裏返し、扉をあけ忙しくなく駆け回る。異国の街では脳がそのような状態になる。「ここは何だっけ。あれはどうだっけ」と。

それでもいまは携帯電話がある。どこでも簡単に現地のネットワークにつなげることができる。十年前はそうではなかった。海外のネットワークにはWifiモバイルが必要だった。海外は携帯のつながらない国だった。

携帯を見ると、いつもの日常と変わらぬ日々が流れている。ツイッターでは、いつも喧々諤々、他愛もないことに議論をしている。まるでツイッター全体が大喜利のように。

異国ではそのツイッターの日常がうまく脳に直結しない。まるで匂いのないパクチーのような不思議な感覚がそこにはある。日本語なのに、すっと頭に入ってこない。

そんな時に僕はインスタグラムを開く。そして、自分のいる場所の名前のタグを検索する。カタカナで。そうすると、そこには、多くの日本人たちを見ることができる。

国という枠組みなんてと思っているくせに、異国においては、同じ言語をしゃべることのありがたみをしる。

そうして、それに少し勇気づけられる。同時に自分が日本人であることに逃れられない悲しさを知る。カタカナで検索した地名を英語になおして再度検索する。そして、また日本語でタグを検索する。