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寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

形容詞が言えない男

彼は形容詞が言えない人だった。

意図的というよりも、生得的に形容詞という概念を持っていないようだった。

たとえば、夏の暑い日には「暑い」と表現するのではなく、「スタバで涼んでいこう」と表現する人だった。試験後の徹夜明け「眠い」というのではなく、「帰って寝る」という人だった。

形容詞を言うのではなく、そこに紐づく動詞で表す人だった。

実は彼と付き合うまで、彼は形容詞を言わない人だなんて気づかなかった。普通に生活している分には、形容詞を使って無くても違和感がないのだ。女子高生みたいに「かわいい」なんて言わずに生きていけるのだ、驚くことに。

だから、付き合ってても、しばらくは気づかないほどだった。

「この服、似合う?」と試着してみても「良い悪い」ではなく「買っちゃいなよ」と言ってくれたし、辛い麻婆豆腐を食べに行って「辛いね」と言っても「水、飲む?」と言われただけだったから。

気づいたのは、私が手料理を作った時だ。

私は「美味しい」という1つの形容詞だけを待っていたのだけれど、彼からその言葉は出なかった。「いくらでも食べれるよ」という表現だけだった。その時に私は「美味しかった?」と聞いて、彼が形容詞を言えない人間だと知ったのだ。

幸い、彼の中で「好き」という言葉は形容詞ではなかったようで「好きだよ」と言ってくれたけれど。

同じように彼が好きと言っていたのは彼の実家で飼っていた犬だった。マメ、という名前の柴犬だった。彼が小学生の頃から一緒に住んでいた犬で、あまり言葉をしゃべらない彼の話相手だった。死因は老衰だった。

人が「悲しい」という表現に浸る時に、彼は、悲しいという形容詞を持たなかった。

その代わり、1人で毎日1時間、バッティングセンターでボールを打ち続けた。彼にとって悲しいというのは、そういう行為だったのだ。悲しいという感情を誰にも打ち明けられずに、誰にも言えずに蓄積された悲しさは、大きなスイングによって吐き出された。

彼にとって、悲しいという表現は、孤独で、強く暴力的なものだった。