寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

人は努力をする。たとえば楽器の演奏会であったり、英語のテストであったり、あるいは、恋人と一緒に海に行くためのダイエットであったり。

全力を尽くせば、その結果が望むものと異なっても、納得できることが多い。それは、人間が自分の精神をコントロールする術なのかもしれない。それで納得せざるを得ないからだ。しかし、もう1点としては、「これだけ頑張っても勝てなかったのだからしょうがない」というきれいな諦めという観点もあるだろう。全力を尽くしても達成できないものは、それを認めざるを得ないのだ。

しかし、「自分の力以外の力で負けた」場合はどうだろう。たとえば、大学受験の途中に事故にあって受験ができなかった。ないし、スポーツ大会の日が雨で勝負ができなかった。これは、不完全燃焼となり、もやもやを残すことが多い。人は可能性に生きる生き物だ。「たら」「れば」ないきものだ。「もし試合に出ていたら」「もし、間に合っていれば」と起こり得なかった過去に引きづられて生きていく。

数年前、ある高校野球に参加校が、決勝戦を辞退することになった。部員がタバコを吸っていることがわかったからだ。

その部員たちの心境はいかなるものだろう。まさに血を吐くような努力をした日々。鳴きながらタイヤを引っ張って走った日々。手に血豆を作りながら素振りをした日々。それが、全て報われなかった。戦うことさえできなかった。たった1人の部員の過ちのために。

新聞に乗ったのは「出場辞退」までで、その後日談は記載されていなかった。しかし、新聞にのらなかった日々にも、日々の営みがあった。

学生たちは、出場辞退の話を監督から聞いた。号泣し、怒り、そして、諦めた。キューブラー・ロスの「死の受容」のプロセスと同じく、否認と孤立、怒り、取引、抑うつ、受容のプロセスを辿った。

出場停止の事実を受け入れた後、部員たちは、その怒りの矛先を探した。部員たちは代償を求めていた。タバコを吸って自宅謹慎をしていた男の家に部員2名が訪れた。そして、公園に連れ出した。そこから、残りの3年生の部員たちは、その男を袋叩きにした。バットは使っていない。バットはそのようなことに使う道具ではないからだ。殴り、蹴り、殴り、蹴り。男は最初は痛みで抵抗したものの、4発ほど殴られてからは抵抗しなくなった。

10分もすれば、男は動かなくなった。部員たちは、それをしばらく眺め、解散した。男は30分後になんとか自分で自宅に帰った。鼻が折れ、鼻血が呼吸を苦しくさせていた。自宅に帰り、それを見た母親が慌てて救急車を呼んだ。男は命に別状はなかったが、腕も折れており、野球はしばらくはできなさそうだった。

男は何も言わなかった。男の親も最初は「どうしたんだ」と聴いたが、やがて聞かなかった。警察にも届けなかった。ましてや学校にも届けなかった。

親は分かっていたし、男も自分がその罪に価すると理解していた。むしろ、彼自身は殴られることを求めていたのかもしれない、と彼自身は考えた。彼だって、甲子園で優勝したかったのだ。チームメイトたちと同じく努力したのだ。だからこそ、ボコボコにされることを理解していたし、きっと自分が逆の立場であってもしただろうと思う。

「しょうがないね。また頑張ろう」と思うには、彼らは若すぎたし、何より、代償のないまま、それを飲み込めるほど、きれいごとの世界ではなかった。

野球のバットは人を殴るためではなく、野球のボールを打つためだ。また、高校野球の出場辞退も、人を成長させる糧といったきれいなものではなく、地獄でしかないのだ。

※上記は当然フィクションです(タバコで高校野球の出場辞退のニュースを下敷きに書いてみました)