眠る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです。最近テクノロジーをテーマにしたものに凝ってます)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます あとスターも励みになります!

帰り道のコンビニで

女性が歩いている。トボトボと歩いている。

少し夕立の降った湿ったコンクリートの路地を、下を向きながら歩く。下を向きながら歩いているのには理由がある。仕事でミスをして怒られたからだ。先週も失敗したので二度目だ。社会人になって半年。まだ仕事にはなれない。

駅でエスカレーターに乗ると、後ろから「どいて」と怒られる。関西と間違って、右側に立ってしまっていた。

女性は電車に揺られる。自分を励ますために、好きなミュージシャンの音楽を聞く。15分乗ってから、電車を乗り換えて20分。最寄りの駅に着く。駅から降りてコンビニに寄る。へこんでもお腹は空く。おにぎり2つを買って、レジに並ぶ。

前に並んだおじいさんが、キョロキョロと女の子の方を見ている。女性は不安そうな顔をしている。おにぎりを少し強く握る。

レジがおじいさんの番になる。するとおじいさんが女の子に話しかける。

「俺、時間かかるから先にいきなよ」

という。手には、振込用紙をたくさん持っている。

女性は「ありがとうございます」といって空いたレジに並ぶ。

コンビニを出ると、少し気持ちが軽くなっていることに気づく。おじいさんに「自分」という存在を気づいてもらえた。順番を譲ってもらえるほど価値のない人間ではないけれど、気をかけてくれた。女性はそう考える。

女性は帰り道におじいさんのことを考える。

聞いた話を思い出す。「気が効く人は年を取るとさらに気が利くようになり、気が利かない人は年を取ると余計に気が利かなくなる」という話を。気が利くというのは、脳のある部分の神経が対応している。気が利かないという人はその神経の活動が弱い。使わないで、いるとさらにその神経は弱くなり、いつか切れてしまう。

「おばちゃん」と呼ばれる人たちが「気遣いができない人が多い」とも言われるのはそういうことらしい。気を使わない生き方をしてきた結果、脳が「この気を使う神経はいらないよね」と切ってしまったからだ。

そう考えると、あのおじいさんは気を使う人生を歩んできたんだろうな、と思った。だからああやって年を重ねても、気を使う神経がピリピリ光っているだ、と。

女性は続けて自分に問う。「私は、あのおじいさんと同じようなことができるかな」と考えた。できないな。

でも、次回、私がそのような状況になったらするようにしよう、と思った。いつしか、仕事のミスのことは女性の頭から消えていた。

歯ぁ食いしばって、寝る

先日、ナインティナイン岡村隆史氏がこのような話をしていた。

キングコングの西野さんがInstagramで、セフレを募集していた

彼はそれに驚く。何か意図があるんじゃないかと推察する。ただ同時に、羨ましいと考える。もしそのようにして素敵な方と出会えたらうれしいと思うのは、当然だろう。

そうして、羨ましさと自重の葛藤の末、彼はこう言うのだ。

「歯ぁ食いしばって、寝るしかあらへん」と。

どれだけ自分がそれをしたくても我慢。歯を食いしばり耐えて寝る。

これは芸人の坂田利夫さんのエピソードからきている。ストリップ劇場にいった坂田さん。魅力的なストリップを見た後輩が「たまりませんわ。どうします」と言ったところ、坂田氏が「歯、食いしばって寝るだけや」と回答したことに由来する。いくら素敵な人がいても、手を出してはいけない相手ならば、我慢して寝るしかない、ということである。

ストリップ劇場にもよらず、人生では、そういうことはある。

たとえば、既婚者に恋をしそうになった時。あるいは、競合他社がグレーな手段で業績を伸ばしている時。または、自分より出自が良い人に羨望を抱いてしまう時。別れた恋人に連絡をしそうになった時。

そんな時に我々は歯を食いしばる。泣いてもしょうがない。ぐっと我慢して耐える。欲望を振り切る。

だから、あなたの隣で寝ている人の歯ぎしりがうるさくても、少しやさしくみてあげてほしい。もしかすると、彼/彼女は、歯を食いしばって生きているのかもしれないのだから。

死にゆくための儀式

「人は無くしてから、その価値に気づく」というのは事実だろう。

今回も北朝鮮の指導者の兄弟の死に関して、多くの評価がメディアに溢れ、彼の死を悲しむ声が聞こえた。死ぬまでは、ほとんど表に出てこないのに、死ぬと急に表に出てくる美談。

これは常に繰り返される光景だ。芸能人でも、あるいは、自分を盾にして子供を守ったおじいちゃんも。亡くなってから「惜しい人をなくした」と言われる。

これは、でも、そういうものなのだろう。人は無くすまではその価値を気づかないものなのだ。

もし死ぬ前に、人々の良いところをピックアップしていたら、メディアは扱うネタで溢れてしまう。あるいは、我々はあらゆるものに感謝し続けないといけない。それは、なんともいきづらい。

だから、我々は、それをなくすまでは、その価値は眠らせておく。

同時に、死者は美化されるのも事実なのだろう。良いところだけがピックアップされる。誰も死んだ人の悪口はあまり言いたくない。それよりも、良かったところを言い合いたい。

人は生きている時に他人をほめないが、死んだ途端にその人を褒めるのだ。でも、それが摂理なのだろう。うまく生きていくための。

そうやって人は「大切な人がなくなった」という事実をたくさん抱えながら生きていく。毎年、新しい「大切な人」をなくしていく。

そして、70歳や80歳になったら、「ああ、自分もそろそろ死んでいいかな」と思うのだろう。なぜなら「大切な人があちらの世界でたくさん待っている」から。

嫌な人たちが待っている世界にはいきたくない。だから、人は死者をいい人にするのかもしれない。

そうして、人は自分の大切なものをなくした感覚だけをどんどん貯めて死の準備に向かう。どこかで、その大切なものの喪失が飽和をして、分水嶺を超えた時に、人は死の準備ができる。

たくさんの良い人がなくなったのだから、自分もそろそろ後に続こうかと。

だから、人が逝去して美談で語るのは、自分が、人類が死にゆくための儀式なんだろうな、と思うのだ。

走れ、走れ

なぁ、あんた知っとるか。テレビで見たんやけどな。こないだマラソン大会があったんや。岡山県かそこらで。小学生のマラソンや。

そんでな、みんな走ったんやけど、全員コースを間違えてたらしいわ。で、全員失格や。

そやけどな、1人だけ正しいコースを走ったんやて。一番おっそい子だけが。

一番遅かったから、係の人と一緒に走ったんやて。そやからちゃんとしたコースが分かったらしいわ。

»マラソン大会で誘導ミス、最後尾1人だけ完走V : 社会 : 読売新聞(YOMIURIONLINE)

それだけ聞いたら、「おもしろいなー」思うやろ。ドベの子が優勝やて。そら、面白いな、思うわ。

けどな、考えてみぃ。間違ってなかったら、1位になった子おるやろ。この1位の子は、どう思う。

もしかしたら練習してたんやと思うで。女の子にええとこ見せようと思ってたんかもしれん。父ちゃんと約束して優勝したら、なんかこうてもらう約束してたかもしれん。

それが全部パーや。

表彰までされたのに「間違いでした」やて。

でも、悔しいんは、自分のせいでもあるからな。自分が道、間違えたんやからな。誰も責められへんわ。

なんならその子も責められたかもしらん。「なんでまちごうたんや」ってな。ふんだりけったりやな。小学校でそんな経験したら辛いで。学校これんようになるかもしれん。

テレビでまで放送されてもて。町中では言われるやろ。「あの子、ほんまは一等やったのに残念やな」って。かわいそうに。

道まちがえたくらいなんも悪ないのにな。おっちゃんなんか道まちごうてばっかりやで。まぁいうたら、係の人は悪いわな。間違うようなコースを選んだんやから。ええ男が。怒られるんやったら係の人がええやろな。

1位の子には強うなってほしいな。

そや。2位以下の子は、「前の人についていくのが正しいわけやない」ということを学んだやろうな。それはおっきいめっけもんかもしらんな。

おっちゃんみたいに誰も後ろついてきてくれへんのも悲しいけどな。

なんか、マラソンに順位なんかいらんかもしらんな。一生懸命はしったらええやんか。一番一生懸命はしった子が優勝でもええやんな。コースまちごうてもええ。頑張ったらええんや。

おっちゃんもまだこれから走るからな。見ててや

マレーシアの空港で待ち合わせ

車の中で奴を待ちながら、考えていた。汗がじっとりとTシャツに染みる。

考えていたのは、「うまく殺せるだろうか」というよりも、「私はどう殺されるのか」ということだった。殺すのはうまくいくだろう。警戒心のない男を殺すことは造作ない。毒殺なんて小学生でもできる。

問題はその後だ。彼らは「そのまま金をやるから悠々自適に暮らせ」なんて言うけれど、そんなのは嘘だろう。依頼主を知った私は恐らく殺される。空港でやるからには防犯カメラにだって映るだろう。そんな人間を彼らがほったらかしにしておくわけがない。

でも、他に選択肢なんてなかった。私がこの話を受けなければ、私の家族は殺される。何より、この依頼を聞いてしまった以上、殺される。

私は奴を殺すしかないのだ。

しかし、私は100%殺される、ときまったわけではない。1%は「もしかしたら」と考えてしまう自分もいる。もしかしたら大金をもらって、そのまま田舎で暮らせるかも。だから、錯乱しないのだろう。もし100%殺されるなんてわかっていれば、私はこのミッションをうまく遂行できないだろう。1%の可能性にかけて、私は奴を殺す。

殺される奴もかわいそうだが、仕方ない。そういうものなんだ。

でも馬鹿らしい。マレーシアでは、こんなにのんきな人たちがいるのに、1人の男は殺されて、そいつを殺した女も殺されようとしている。私も、のんきにクエラピスでも食べる人生を歩みたかった。

笑いを意味するLOLをあしらったTシャツを着たのも、ちょっとした皮肉だ。防犯カメラに映った時に、私は世界を嘲笑おう。こんな変な世の中で真面目に生きるやつらを笑い飛ばしてやろう。

手が震える。汗が冷たい。

Tシャツで汗を拭う。男が到着するまであと30分。

ちょこっと

「14日、仕事帰りに家に寄るね」とミサは言う。

ああ、14日。バレンタインのチョコをくれるのか、と僕は思う。

14日、仕事から帰って、家でパソコンをしているとインターホンが鳴る。ミサだ。「チョコなんだろうけど、チョコチョコ言うのもあれだから、ちょっとだけチョコなのかな、という顔」で迎え入れる。

彼女が右手に持つ紙袋が気になる。ファッションブランドものの紙袋だ。すると手作りかな、と考える。

部屋にあがり、少し話をする。「チョコはまだかな。まだチョコかな」と少しそわそわしながら、話をする。そして、ミサは言う。

「いいものもってきたよ。あげるー。ハッピーバレンタイン」

袋を空けると、ボックスがあり、ボックスを明けると彼女の手作りが入っていた。ただ、それはチョコではなくアップルパイだった。

「あなた甘いものあまり好きじゃないでしょ。だからアップルパイにしたけどどうかな」

「気が効くね〜。ありがとう。一緒に食べる?」

「いや。私は味見でたっぷり食べたからいいや。徹夜になっちゃったよ。疲れたからかえるね」

ミサが帰ってから、ソファーに座って考えた。僕のことを考えてチョコを避けてくれたなんて、素敵な子だな、と思う。

同時に「でも、違うんだ。バレンタインはチョコがほしいんだよ。たとえ甘いものが好きじゃなくても」という独り言をつぶやく。バレンタインは、チョコが食べたいんだよ。

コーヒーを入れてアップルパイをチンする。すると、バニラエッセンスの香りが部屋に立ち込めた。いい匂いだな。

そして、頬張る。

「あ」

アップルパイの中に、小さなチョコが入っている。マックスブレナーのパイのように。

なんだよ。俺の彼女は気が利く上にサプライズ好きかよ。甘い上に苦いって、まさにチョコだな。

思わずパイを全部平らげた。ハッピーバレンタイン。

泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます

あるドラマを見ていたら、「泣きながらご飯食べたことある人は、生きていけます」というセリフがあった。

いい言葉だな、とは思いつつも、ドラマの続きがあったので、その言葉を頭の隅においていた。ある時にバスに乗っていて、このセリフを思い出した。

- 脚本家は、どのような思いでこのセリフを書いたのだろうか

と思った。

このドラマの脚本家は「坂元裕二」さん。東京ラブストーリーの脚本家だ。

彼は、泣きながらご飯を食べたことがあろうのだろうか。想像で書いたのだろうか。わからない。ただ、いずれにせよ何かしらの意思があって記載された言葉だろう。

泣きながらご飯を食べるというのはどういうシチュエーションだろう、と考える。

単なる悲しい時ではない。なぜなら悲しい時は食欲もないからだ。ご飯は食べられない。それがこのセリフの妙味だろう。

ご飯の味で思い出が蘇って泣くということはあるかもしれない。母親が作ってくれたおにぎりのような。でもこれとは少し文脈が違う。

自分はいつ泣きながらご飯を食べただろうか。バスの窓の外を眺めながら思い返した。

5年前だな、と思った。よくある話だ。1つの恋愛が終わった時だ。

ビストロに僕は入った。食欲はないけれど、お酒は飲みたかった。せっかくなのでつまみも頼む。

ビールを飲んで、一息を着くと、飲み干したビールが目から溢れるように涙が出てきた。止めれなかった。僕は諦めて、涙が出ていないふりをした。そして、味のしないソーセージを口に放り込んだ。全然味のしないソーセージだった。

ああ、そうだ。

泣きながらご飯を食べるということは、意思なんだ。

泣くほど辛いことがある時は、普段はご飯を食べない。食べれない。でも、それでも食べる。それは、結局、意思の力なんだ。

「涙には、悲しいことには、負けない」という意思。それが泣きながらご飯を食べることの意味なんだ。諦めない、という強い意思がそこにはある。泣きながらご飯を食べるということには強い意思がいる。

目的のバス停に降りながら考えた。

あの時、別れた彼女に聞いてみたいな。

あなたは泣きながらご飯を食べたことはありますか、って。