泡のような恋
人は「海の青」に海を見る。つまり、「紺碧の海」「コバルトブルーの海」「透き通るような青」と、海を青色の形容詞で呼ぶ。すなわち、人はその青色の中に海を見る。
ダイバーは、別のものを海に見る。魚、である。色とりどりの熱帯魚を見るために潜る。それは海の青さを見るためではない。彼らにとって海は背景でしかなく、その背景は透明であればあるほど良いともされる。
私はダイビングで別のものを見る。気泡だ。ポコポコと海面を目指して浮かびゆく空気の固まり。それを見ているだけで心が癒やされる。だから、私は魚の居る場所なんて興味がない。ただ、泡さえ見れれば良い。
ただ、あまりに暗い海だと気泡が見えない。だから透明で、太陽の光がより深くまで届く方がいい。10メールくらいの深さの海底で上をむいて寝る。私が吐き出す空気が、ゆっくりと上を目指して歩いていく。太陽の光がその泡を照らす。
あたりは静寂。何も聞こえない。ただ、泡が空を目指す音だけが世界を満たす。
臨死体験をしているような(経験はないが)、ふわふわと身体が浮き、まるで自分が死んだのではないかと錯覚する。夏の騒ぎも海の狂乱からも遠く、まるでカムチャッカ半島の灯台の夜明けのような静けさだ。自分の悩みなんてどうでも良いように思える。このように死ぬならば幸せだな、とさえも思う。
ただ、この趣味で困ったことが1つある。ダイビングは、原則として1人ではできないのだ。いくら上達しても必ず2人でしないといけない。つまり私のこの趣味を理解してくれる人と一緒にダイブしないといけない。
それがどうやら私の恋愛対象の条件の1つになりそうだ。泡のように消える恋もあれば、泡のために産まれる恋があってもいいんじゃないの、と思うけれど。