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寝る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます

くじ

サッカーの試合結果を予想するスポーツくじ「BIG」で、ランダムであるはずの予想結果が、2回続けて全く同じだったそうだ。

そんなニュースが騒がれていた。

くじで思い出すのは、小学生の頃だ。私は地元のお祭りに参加していた。屋台がでる否かのお祭りだ。

焼き鳥やかき氷や、そして、おみくじ。子供の頃の私はゲーム機が欲しくて、そのくじを買う。300円かそこらだ。でも当たるはずもなく、ペンだかなんだかをもらった記憶がある。

私を連れていってくれたおじは、その屋台で「全部のチケットをくれ」とチケットを買い占めた。いま思い返せば10万円分くらいだろうか。でも、結局、そこに当たりはなかった。そして僕に「残念だったね」と言ってくれた。

それから僕はギャンブルに手を出さなくなった。

でもそんな僕が人生で一番ギャンブルをしたといえるのは、エイコと付き合ったことだろう。エイコはギャンブラーだった。人生における不確実性を楽しむ人だった。

資産運用は仕手株やFXをするし、仕事もしょっちゅう転職していた。確実的なものが我慢ならないのだ。食べログも高い評価の店は美味しいとわかっているから、評価のない店にいった。あるいは、評価をみないで行き当たりばったりで店に入っていた。

ゲームはガチャを愛用し、すぐにお金を使い果たしていた。

でも神社のおみくじはしなかった。「そんなのどうでもいいから」ということだ。天気予報も見なかった「外に出て天気を知った方が楽しいじゃん」といっていた。だからすぐに雨に振られて風邪を引いていた。

マカオにいった時は彼女はひたすらルーレットをして、僕はバーでお酒を飲んでいた。

僕は、自分がギャンブルをしない人生を選んだからこそ、そんな彼女に惹かれていたのかもしれない。まさか彼女と付き合うことがギャンブルみたいなことになるなんて思いもしなかったけれど。

結局、ギャンブル好きの彼女は恋愛も長続きしなかった。僕との恋愛も数ヶ月で終わってしまった。

それから彼女は3回、結婚をした。そして、また彼女は今、1人を楽しんでいる。

彼女を見て思う。人生でギャンブルをする時は、「当たり」を探すのではなくて「不確実性」を楽しむに限るな、と。彼女がいま、幸せかどうか知らないけれど、「私の恋愛に当たりはなかった」というような女ではなかった。

彼女はずっとこれからもくじを引き続けるのだろう。

僕は、自分がひかなかったクジを思い出して、その代わりに得たものを考えた。わからない。でも、彼女の方が人生を楽しんでいたな、と思った。

そんなことを考えながら帰り道で携帯を取り出した。LINEで彼女の名前を探す。「いま、何してるの」と文章を打った。ギャンブルをしないような僕が彼女に連絡するのは、きっと彼女にとって「不確実」なことだよな。

そんなことを考えながら、LINEを送った。

歩く財布

その男が、いつ財布を落としても、気づけば家の前に財布が置かれてあった。

ポケットを触って「あれ、ないな」と思っても、数日後には家の前に財布が置かれていた。

いつもそのように返ってくるから、男は「不思議だな」というのも思わずに、そういうものだ、と思っていた。財布というのは、勝手に家に返ってくるものだと。

ただ、私達の知っている世の中はそのようにはできていない。財布には足はないし、ましてや、帰省本能はない。むしろ、家出をしたがるものだ。どれだけ多くの人が財布をなくし、涙を流したことか。きっと映画タイタニックで流された涙よりも多くの涙が財布の家出には流されたことだろう。

でもその男の元にはきちんと財布が帰ってきた。

なぜか。

そのコンゴのダフサルという町では、お金がそもそも必要ない町だからだ。だから、財布にもお金が入っていない。男はファッションで財布を持っているだけ。落としても、街中の人が顔見知りだから、「またあの坊やが何か落としている」と家の前にまで届けてくれる。

だから、男は、財布は家に返ってくるものだと思っている。

世界には、財布が自動的に家に帰る町もある。我々はそんなことはしらない。お互い知らないことが多いのだ。

たっぷりのコーヒー

たっぷりのコーヒー、という表現は魅力的だ。セクシーでグラマラスで蠱惑的だ。

小説やドラマではよくみる表現で。特に海外のドラマでは「たっぷりのスタバのコーヒーをもって出社」なんてシーンは、セックス・アンド・ザ・シティやザ・スーツなどでも見かけた記憶がある。

なぜ、この表現が魅力的か、と考える。恐らく、「たっぷりのコーヒー」が用意されるシチュエーションがエキサイティングだからだろう。

仕事前や戦いの前にテンションを上げるために、あるいは、眠気に負けないようにたっぷりのコーヒーを飲む。

もちろん、それには大変さも含まれている。だからこそ、魅力的なのだ。「ピナコラーダ」や「パイナップルケーキ」とかでは、セクシーさが足りないのだ。それは甘いだけだから。

たっぷりのコーヒーは、「美味しさ」と「苦しさ(苦さ、でも良い)」がブレンドされているからこその魅力なのだ。

人はたっぷりのコーヒーを飲んだ回数分、たっぷりのコーヒーの魅力を知るのである。多分。

帰り道のコンビニで

女性が歩いている。トボトボと歩いている。

少し夕立の降った湿ったコンクリートの路地を、下を向きながら歩く。下を向きながら歩いているのには理由がある。仕事でミスをして怒られたからだ。先週も失敗したので二度目だ。社会人になって半年。まだ仕事にはなれない。

駅でエスカレーターに乗ると、後ろから「どいて」と怒られる。関西と間違って、右側に立ってしまっていた。

女性は電車に揺られる。自分を励ますために、好きなミュージシャンの音楽を聞く。15分乗ってから、電車を乗り換えて20分。最寄りの駅に着く。駅から降りてコンビニに寄る。へこんでもお腹は空く。おにぎり2つを買って、レジに並ぶ。

前に並んだおじいさんが、キョロキョロと女の子の方を見ている。女性は不安そうな顔をしている。おにぎりを少し強く握る。

レジがおじいさんの番になる。するとおじいさんが女の子に話しかける。

「俺、時間かかるから先にいきなよ」

という。手には、振込用紙をたくさん持っている。

女性は「ありがとうございます」といって空いたレジに並ぶ。

コンビニを出ると、少し気持ちが軽くなっていることに気づく。おじいさんに「自分」という存在を気づいてもらえた。順番を譲ってもらえるほど価値のない人間ではないけれど、気をかけてくれた。女性はそう考える。

女性は帰り道におじいさんのことを考える。

聞いた話を思い出す。「気が効く人は年を取るとさらに気が利くようになり、気が利かない人は年を取ると余計に気が利かなくなる」という話を。気が利くというのは、脳のある部分の神経が対応している。気が利かないという人はその神経の活動が弱い。使わないで、いるとさらにその神経は弱くなり、いつか切れてしまう。

「おばちゃん」と呼ばれる人たちが「気遣いができない人が多い」とも言われるのはそういうことらしい。気を使わない生き方をしてきた結果、脳が「この気を使う神経はいらないよね」と切ってしまったからだ。

そう考えると、あのおじいさんは気を使う人生を歩んできたんだろうな、と思った。だからああやって年を重ねても、気を使う神経がピリピリ光っているだ、と。

女性は続けて自分に問う。「私は、あのおじいさんと同じようなことができるかな」と考えた。できないな。

でも、次回、私がそのような状況になったらするようにしよう、と思った。いつしか、仕事のミスのことは女性の頭から消えていた。

歯ぁ食いしばって、寝る

先日、ナインティナイン岡村隆史氏がこのような話をしていた。

キングコングの西野さんがInstagramで、セフレを募集していた

彼はそれに驚く。何か意図があるんじゃないかと推察する。ただ同時に、羨ましいと考える。もしそのようにして素敵な方と出会えたらうれしいと思うのは、当然だろう。

そうして、羨ましさと自重の葛藤の末、彼はこう言うのだ。

「歯ぁ食いしばって、寝るしかあらへん」と。

どれだけ自分がそれをしたくても我慢。歯を食いしばり耐えて寝る。

これは芸人の坂田利夫さんのエピソードからきている。ストリップ劇場にいった坂田さん。魅力的なストリップを見た後輩が「たまりませんわ。どうします」と言ったところ、坂田氏が「歯、食いしばって寝るだけや」と回答したことに由来する。いくら素敵な人がいても、手を出してはいけない相手ならば、我慢して寝るしかない、ということである。

ストリップ劇場にもよらず、人生では、そういうことはある。

たとえば、既婚者に恋をしそうになった時。あるいは、競合他社がグレーな手段で業績を伸ばしている時。または、自分より出自が良い人に羨望を抱いてしまう時。別れた恋人に連絡をしそうになった時。

そんな時に我々は歯を食いしばる。泣いてもしょうがない。ぐっと我慢して耐える。欲望を振り切る。

だから、あなたの隣で寝ている人の歯ぎしりがうるさくても、少しやさしくみてあげてほしい。もしかすると、彼/彼女は、歯を食いしばって生きているのかもしれないのだから。

死にゆくための儀式

「人は無くしてから、その価値に気づく」というのは事実だろう。

今回も北朝鮮の指導者の兄弟の死に関して、多くの評価がメディアに溢れ、彼の死を悲しむ声が聞こえた。死ぬまでは、ほとんど表に出てこないのに、死ぬと急に表に出てくる美談。

これは常に繰り返される光景だ。芸能人でも、あるいは、自分を盾にして子供を守ったおじいちゃんも。亡くなってから「惜しい人をなくした」と言われる。

これは、でも、そういうものなのだろう。人は無くすまではその価値を気づかないものなのだ。

もし死ぬ前に、人々の良いところをピックアップしていたら、メディアは扱うネタで溢れてしまう。あるいは、我々はあらゆるものに感謝し続けないといけない。それは、なんともいきづらい。

だから、我々は、それをなくすまでは、その価値は眠らせておく。

同時に、死者は美化されるのも事実なのだろう。良いところだけがピックアップされる。誰も死んだ人の悪口はあまり言いたくない。それよりも、良かったところを言い合いたい。

人は生きている時に他人をほめないが、死んだ途端にその人を褒めるのだ。でも、それが摂理なのだろう。うまく生きていくための。

そうやって人は「大切な人がなくなった」という事実をたくさん抱えながら生きていく。毎年、新しい「大切な人」をなくしていく。

そして、70歳や80歳になったら、「ああ、自分もそろそろ死んでいいかな」と思うのだろう。なぜなら「大切な人があちらの世界でたくさん待っている」から。

嫌な人たちが待っている世界にはいきたくない。だから、人は死者をいい人にするのかもしれない。

そうして、人は自分の大切なものをなくした感覚だけをどんどん貯めて死の準備に向かう。どこかで、その大切なものの喪失が飽和をして、分水嶺を超えた時に、人は死の準備ができる。

たくさんの良い人がなくなったのだから、自分もそろそろ後に続こうかと。

だから、人が逝去して美談で語るのは、自分が、人類が死にゆくための儀式なんだろうな、と思うのだ。

走れ、走れ

なぁ、あんた知っとるか。テレビで見たんやけどな。こないだマラソン大会があったんや。岡山県かそこらで。小学生のマラソンや。

そんでな、みんな走ったんやけど、全員コースを間違えてたらしいわ。で、全員失格や。

そやけどな、1人だけ正しいコースを走ったんやて。一番おっそい子だけが。

一番遅かったから、係の人と一緒に走ったんやて。そやからちゃんとしたコースが分かったらしいわ。

»マラソン大会で誘導ミス、最後尾1人だけ完走V : 社会 : 読売新聞(YOMIURIONLINE)

それだけ聞いたら、「おもしろいなー」思うやろ。ドベの子が優勝やて。そら、面白いな、思うわ。

けどな、考えてみぃ。間違ってなかったら、1位になった子おるやろ。この1位の子は、どう思う。

もしかしたら練習してたんやと思うで。女の子にええとこ見せようと思ってたんかもしれん。父ちゃんと約束して優勝したら、なんかこうてもらう約束してたかもしれん。

それが全部パーや。

表彰までされたのに「間違いでした」やて。

でも、悔しいんは、自分のせいでもあるからな。自分が道、間違えたんやからな。誰も責められへんわ。

なんならその子も責められたかもしらん。「なんでまちごうたんや」ってな。ふんだりけったりやな。小学校でそんな経験したら辛いで。学校これんようになるかもしれん。

テレビでまで放送されてもて。町中では言われるやろ。「あの子、ほんまは一等やったのに残念やな」って。かわいそうに。

道まちがえたくらいなんも悪ないのにな。おっちゃんなんか道まちごうてばっかりやで。まぁいうたら、係の人は悪いわな。間違うようなコースを選んだんやから。ええ男が。怒られるんやったら係の人がええやろな。

1位の子には強うなってほしいな。

そや。2位以下の子は、「前の人についていくのが正しいわけやない」ということを学んだやろうな。それはおっきいめっけもんかもしらんな。

おっちゃんみたいに誰も後ろついてきてくれへんのも悲しいけどな。

なんか、マラソンに順位なんかいらんかもしらんな。一生懸命はしったらええやんか。一番一生懸命はしった子が優勝でもええやんな。コースまちごうてもええ。頑張ったらええんや。

おっちゃんもまだこれから走るからな。見ててや