眠る前に読む小話

寝る前に1分ほどで読める小話です(フィクションとノンフィクションまぜこぜです。最近テクノロジーをテーマにしたものに凝ってます)。読者になっていただけると欣喜雀躍喜びます あとスターも励みになります!

公衆電話がきえて代わりになくなったもの

今週のお題「復活してほしいもの」

復活してほしいものといえば、公衆電話だろう。携帯が普及した今じゃあなかなかお目にかからなくなったが、昔は、よく使ったものだ。

テレホンカードなんて今の若いものは知らないだろう。なんて、こんなことを言ったらおっさんだな。といってもおっさんなんだが。

そんな昔話をしたいんじゃない。

携帯がなかった時は不便だった。特に待ち合わせは不便だった。事前に時間と場所を決める。遅れてもどうしようもない。駅前の黒板で伝言をかくこともできたが、駅前で待ち合わせなんてすることはあまりない。遅刻したら、相手がもういなくなってた、ってこともある。それは悲しかったよ。

でも、唯一良かったことがある。

それは、人と会ってる時は、その2人には何も邪魔が入らなかったってことだ。今みたいに仕事の連絡もないし、他の友達からの誘いもないし、きをひくニュースも見れない。2人でいる時は、完全に2人の世界だ。

俺はたまに懐かしむんだよ。あの2人だけの世界を。今はもうなくなっちまったって。公衆電話がなくなるとともになくなっちまった。今は電波の届かないところなんてほとんどないからな。サウナと風呂くらいか。といっても今は防水の携帯もあるので、届いちゃうんだけどな笑。

ただ、今でもなかなか電波の届かないところがある。どこだと思う。

確かに青森の山奥は電波が届かないかもしれないが、ちげーよ。もっと届かないところだ。

そう、それは空の上だ。飛行機にのっている時だ。

あの時は電話をきれって言われるし、そもそも電話は届かない。そんな時に、俺は、あの携帯電話がなかった時代を思い出すんだ。誰も俺を捕まえることができない。一緒にいる人との時間も邪魔されないって。

自由になれる気がするのだよ。

でも、飛行機でも、Wi-fiが使えるものもでてきたよな。そう、それだよ。とても遅い速度のあれ。

あれでつながって他の人とやり取りをしている時、俺は公衆電話を思い出すんだ。

不便で、いつつながるかわからなくて。でもつながるととてもうれしくて。

だから、俺は飛行機の上で、Wi-fiをする時は、あの緑の公衆電話を思い出しながら繋げてるんだ。

そうだ、宇宙にいっても同じことを感じられるかもしれないな。宇宙からの公衆電話。それもいいかもしれないな。電話代は高くつきそうだけどな。テレホンカードで払えっかな。

甘くない至福のスイーツ

至福のスイーツと聞いて思い出すのは、治一郎のプリンだ。治一郎は、バームクーヘンで有名な店だが、最近はプリンも出している。バームクーヘンを作る技法をどうやってプリンに応用しているのかわからないけれど、美味しい、らしい。

「らしい」というのは、俺がこれを食べるのは今日が初めてだからだ。

ヤナコが一番好きなスイーツがこれだった。ヤナコはスイーツがとても好きだった。レストランに行くと必ず「スイーツ、スイーツ」といってデザートを頼んだ。

アイスクリームの時もあれば、杏仁豆腐の時もある。クリームブリュレもあれば、シャーベットもあった。ただ、彼女にとって食事の最後はデザートで締めるべきものだった。

そして、彼女はいつも「食べる?」と食べかけのデザートの皿を出してくれた。スイーツが苦手な俺が「いらない」というのをわかっていて。それでも、「食べる?」と聞いてくれるのは嬉しかった。喧嘩をして無言で食事をした時も、最後はそれは聞いてくれた。黙ってデザートを頼んだのに、食べる時は「食べる?」と聞いてくれた。

だから、彼女がいなくなった部屋で、ヤナコが一番好きなスイーツを食べるのは、儀式みたいなものかもしれない。あれだけ彼女に「食べる?」と聞かれて一度も食べなかった俺が、ようやく食べるのだから。それが、彼女のいない部屋で、というのが、あまりスイートな話ではないけれど。

スプーンにそのプリンを載せて口に入れる。じっくり味を確かめる。

ヤナコは嘘つきだな、と思う。「甘い」と言っていたのに、こんな塩っぱいなんて。ヤナコは嘘つきだ。

ー流れ落ちる涙がプリンの上にこぼれる。

こんな塩っぱいスイーツならいらないよ。残りはヤナコが食べてくれよ。

バレンタインデーに自分に贈るチョコレートの味は。

コンビニのポスターを見ながら「そうか、バレンタインか」と気づく。2月14日という日付を気にしなくなって、もう随分となる。

ー久しぶりにチョコでも買ってみるかな

コンビニで並べられているチョコの前で立ち止まる。ダイエットのために間食を減らしてから、チョコは長らく食べていない。バレンタインの今日くらいは、食べてもいいかもしれない。

そして、そのチョコとコーヒーを飲みながら、昔の恋人に思いを馳せてみるのも良いかもしれない。こんな日でもないと、思い出さないのだから。法事で故人を思い返す日や、母の日で母親を思う日があるのだから、過去の恋人を思い返す日があったっていいじゃないか。

良い思い出も、悪かった思い出も、全部懐かしい。色々なバレンタインデーの記憶も合わせて蘇る。もらったチョコレートもいくつかは思い出せるだろう。

チョコを手に取る。無意識に手にとったチョコはビターと書かれたチョコレートだった。思わず苦笑する。昔の思い出に合う味はビターだろうな。「ものすごくビター味」のチョコレートはないかな。

バレンタインデーに自分に贈るチョコレートの味は。

コンビニのポスターを見ながら「そうか、バレンタインか」と気づく。2月14日という日付を気にしなくなって、もう随分となる。

ー久しぶりにチョコでも買ってみるかな

コンビニで並べられているチョコの前で立ち止まる。ダイエットのために間食を減らしてから、チョコは長らく食べていない。バレンタインの今日くらいは、食べてもいいかもしれない。

そして、そのチョコとコーヒーを飲みながら、昔の恋人に思いを馳せてみるのも良いかもしれない。こんな日でもないと、思い出さないのだから。法事で故人を思い返す日や、母の日で母親を思う日があるのだから、過去の恋人を思い返す日があったっていいじゃないか。

良い思い出も、悪かった思い出も、全部懐かしい。色々なバレンタインデーの記憶も合わせて蘇る。もらったチョコレートもいくつかは思い出せるだろう。

チョコを手に取る。無意識に手にとったチョコはビターと書かれたチョコレートだった。思わず苦笑する。昔の思い出に合う味はビターだろうな。「ものすごくビター味」のチョコレートはないかな。

モロッコでの3日間の忘れられない恋物語

忘れられない恋物語と聞いて思い出すのは、一番付き合いが長かった彼女でも、結婚を考えた彼女のことでもない。

ロッコで3日間だけ一緒に過ごした女性のことだ。赤い月が見える砂の町で。

その時、私は、モロッコのある町のユースホステルで新聞を読んでいた。旅行中に新聞なんて読む必要はなかったけれど、暇だったのだ。暇だったので、ホテルのテーブルの上におかれていた新聞を読んでいた。

すると、彼女が話しかけてきた。「Hello」と。

そこでまず旅行者はどういう反応をするか。もちろん警戒だ。アフリカを旅行する中で、さんざん、色々な目にあってきたのだから。しかも、とてもきれいな目をした女性に話しかけられたならなおさら。

ただ、僕は、彼女の話につきあった。なぜなら暇だったのだ。次の町に行くバスは3日後に出発で、その日は何もすることがなかった。話をするくらい、どうってことない。

彼女によると、彼女は女優の卵で将来は世界で働きたいから英語を勉強しているとか。だから、ユースホステルによく遊びにきて、英語をしゃべる練習をするのだとか。とてもたどたどしい英語で彼女は喋った。過去形をあまり喋られないのか、現在形ばかりだった。どうせ過去の話なんて、こんな旅行先では意味がない。現在形だけで十分だった。そして、2人きりだ。主語さえもいらない。名詞と指先があれば十分だった。

彼女は新聞の英語を指を指す。僕はそれを発音する。彼女がそれを真似て発音する。僕は英語で説明するけれど、僕の拙い英語で説明できないし、そもそも彼女は英語があまり理解できていなかったから、そんな説明が無駄だった。でも、僕は持て余していた。ただ、英語を発音して、なんとなくその単語を説明する。彼女はそれに対して真面目に話を聞く。発音する。それで十分だった。

彼女は、ご飯を食べに行こうという。僕は騙されてぼったくりバーにつれていかれるのかなと警戒したが、近くのハンバーガー屋なら大丈夫だろう。そして2人でハンバーガーを食べた。彼女はぼったくりバーにつれていかなった。それから、その日は分かれた。翌日も彼女はユースホステルに来た。観光をしてくれた。そして、夜ご飯を食べて分かれた。

そんなことが3日続いた。僕は、3日目に「バスで次の町にいかなければならない」といった。もっとも「トゥモロー、ワルザザード」といっただけだけれど。彼女は理解した最後の晩餐だった。同じハンバーガー屋でご飯を食べた。お酒もなしで。2人で砂漠の赤い月を眺めていた。
僕はまだ警戒をしていた。彼女に何か買わさられるんじゃないかと。でも、最後まで、彼女は「宝石屋にいこう」とはいってこなかった。

「バイバイ」と僕はいった。彼女も「バイバイ」といった。欧米ならここでハグでもしたかもしれない。でもここはモロッコだ。ビールもないし、ハグもない。それでいい。僕は日本の住所を渡して分かれた。

僕は、彼女を疑ったことを恥じたし、もし警戒していなかったなら、もっと距離を詰める方法はあっただろうな、と思った。ハンバーガー屋以外にも彼女を招待したかった。でももう遅かった。僕は人を信じられなかった自分を少し後悔した。でも、人生ってそういうものでしょう。

それから1年後だった。日本にかえって3ヶ月はたったころ、僕の家に手紙が届いた。彼女からの手紙だった。

ありがとう、という感謝の手紙だった。楽しかった、ということも書いていた。彼女はそれなりにちゃんとした英語でそれを書いていた。僕はその英語をみて思う。彼女はこの1年で何人の人と喋って、これほど英語を上達したんだろう、と。あるいは、彼女は英語ができたのに、僕に合わせて下手なフリをしていたんだろうかと。

僕はあれから10年以上だった今でもそのことを思い出す。たまにfacebookで彼女の名前を検索するけど、彼女を見つけることはできない。顔だってあまり覚えていない。

人はこれを恋とは呼ばないのかもしれない。でも、僕にとって、これは忘れられない恋物語だ。どうして彼女はこんな僕と3日も一緒にいてくれたのか。なぜ僕はそれなのに何もできなかったのか。そういう後悔がそこにはある。

忘れられない恋物語は、その大きなや長さで決まるんじゃない。そこにある自分のif もしもの重さで決まるのだろう。時々、あのモロッコの砂の町にいつか行くかもしれない。手紙にかかれていた住所にいけば、彼女に再会するかもしれない。そうすれば、これは忘れられる恋物語にできるかもしれない。そんなことを考える。

でもきっと僕はいかないだろう。ただ「いつかいくかもしれない」とifもしもの世界を抱えながら、生きていくのだ。ねえ、人生ってそういうものでしょう。僕は、彼女の手紙で書かれた彼女の英語文字を指指しながら、そうつぶやくのだ。

 

自分に贈りたいものって実は...。

今週のお題「自分に贈りたいもの」

ーなんで...。昨日まであったのに

帰り道に寄った恵比寿アトレで私は立ち尽くす。

自分のご褒美として買おうと思っていた、kate spadeの長財布。ハートのモチーフと色合いがとても好きで一目惚れしてしまった。

でも、私がすぐに買える値段でもなかった。だから、TOEIC800をとったら買おうと思っていた。それが今日だったのに。2週間前まではあったのに。

店員さんに在庫を聞いてみたが、もうないらしい...。

英語勉強をあれだけ頑張ったのもバカらしく思えてきた。そもそも、TOEIC800を目指したのに、理由なんてあまりなかった。会社が必要としているわけでもなかった。いつか英語を使う仕事をしてみたいと思って目指した点数だった。

当面、仕事で英語を使う機会なんてないけれど、いつかそういう機会があればいいなって。でも、ご褒美を買えなくて、そのTOEIC800自体が無駄な努力だったように思えてきた。

ーそうだ

メルカリを探す。ここにあるかも。

1つだけあった。探していた財布を見つけた。ほぼ新品で定価よりも5000円安い。

ーやった

同時に、少し不思議な感情を感じる。人がいらないといっている物を買うことに。この人はこれをいらないんだ。私は、それを本当に欲しいんだっけ。

私はメルカリで、その商品画像を見ながら、ぼーっと考える。その商品には、他にも12の「いいね」がついていた。そして、5件のコメントがついていた。「値下げしてくれませんか」とかとか。

それを見て、また不思議な気持ちがでてきた。

この人はいらない財布だけど、私も含めて、まだ欲しい人がいる。

ーあたりまえだけど、そうだよな..。

みなはみな、同じ感性じゃないし、そして気持ちも変わる。人がいらなくなったからって、その物の魅力が落ちるわけではない。その物が不要になるタイミングが人によってそれぞれ違うだけだ。

高校のバイトの先輩から、服をもらった時に、「うれしい」と思ったように。お兄ちゃんから、使わなくなったIpodをもらった時のように。上の人たちはいつかそれをいらなくなって、次の人にわたす。

恋愛だってそうだ。恋をして、その人が前の恋人に振られたからって、私は「他の人がいらなかったものはいらない」とは思わない。めぐり合わせなんだ。

私も、今は必要かもしれないけど、将来、いらなくなるかもしれない。自分は人これを買って、そして、いつかこれを欲しい人に売るかもしれない。

私のTOIEC800もそうかもしれない。今は、誰も必要とされていないかもしれない。

でも、いつかこれを必要とする人がでてくるかもしれない。そういう時は、喜んで、この小さな英語能力を差し出そうと思った。

ー結局、自分に贈りたいものって、いつか他の人に贈るくらいがいいのかもしれない。

 

私はメルカリで「購入」ボタンを押す。今度は売り切れないように。

死なないペットたち

最近、アメリカでは、犬が不老不死になっているらしい。

 

というのは大げさだけれど、死んだ犬のクローンを作る事業が流行っているのだとか。すなわち、自分の愛犬が亡くなったら、同じ遺伝子でクローンを作る。そうするとまるで愛犬が蘇ったかのように見える。

これは色々な倫理的な問題があるし、実際に問題にはなっている。

しかし、方や、これはこれで、飼い主の悲しみを埋めるならば、人を助けるテクノロジーという側面もある。

同時に、これは、別の問題も提起する。

その犬は、見た目や仕草はなくなった犬と同じだが、死んだ犬の記憶は当然、ない。一緒にでかけた記憶もない。お手などのしつけもできていない。

ただ、飼い主にとっては、それでもその犬を愛する。救われる。時には中身よりも、その同じ見た目が救いとなる。

これは人間でも適応される可能性もあるだろう。もっとも、それはクローンというよりも、VR上でのクローンという形で。

アメリカの研究では、死んだ人をVR上に再生するという試みが行われている。そして、メンタルケアに使うというものだ。

これもさらに倫理問題は複雑だ。犬とは違って、死んだ人をデジタル上に再現するのは、クローンではない。ただ、VR上に再生しているというだけだ。いわば、故人の動画の再生の延長にもあるかもしれない。

しかし、人がVR上で生きるようになれば、それはある意味、「生き返らせる」ということにもなる。それは正しいことか。

それはわからない。

ただ、もし「VR上に故人を生き返らせる事業」が誕生したなら、

・見た目をもう少しかっこよく

・もう少し優しく

などのオプションが活性化することは間違いないだろうな

 

参考:

Bring in the clones: Instagrammers are genetically replicating their pets

死んだ娘とVRで再会した母親が賛否呼んだ理由 | ニューズウィーク日本版 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース