パクチー理論
- 男はいい女を見たら、すぐに恋するじゃん。女は時間がかかるんだよ
と、レイコが飲み会で言っていた。
そうかもな、と思った。
それをレイコは「パクチー理論」といっていた。
多くの人は最初はパクチーが苦手だ。ただ、ずっと食べ続けているといつしか好きになってくる。タイで「NOパクチー」といっても、パクチーが出続ける地獄を経験して、パクチーが好きになる。
恋愛も同じだ、と。男と出会う回数が増えると、いつしか好きになる。
女性が「1回目のデートで家にいかない」のは、「1回目だと遊ばれるから」と思うのではなく、「まだ恋愛温度が上がってない」からだと。
女性は3回、4回と会ううちになんだかその人を好きになっていく。面白いのは、時間ではないということだ。5時間一緒にいるよりも、1時間づつ2回会った方が親近感は増したりもする。
大勢のイベントで何度かあっているだけでも恋心になったりする。これがパクチー理論だ。
そういうレイコは、ある男と結婚した。
その男は、レイコの最寄り駅の駅員さんだったそうだ。
ルイボスティ
起きて「ここはどこだ」と思った。ああ、繁華街のラブホテルだ、と気づく。
クラブで出会った女の子とそのまま駆け込んだラブホテル。2軒が一杯で3軒目にようやく空いていた。少し高かったけど。
そして、気づけば、今だった。朝だった。僕と隣で寝ている彼女は裸で寝ていて。
僕は布団からのっそりと起きて、酒が残る胃にムカムカして。水を飲みたいけど、ラブホの水は200円もするので、なんだか悔しい。
しかたなく、備えつけの安いインスタントコーヒーを僕はあける。水を沸かす。
そして顔を洗っていると、女の子も起きたようで。
「コーヒー飲む?」と聞いたら「いらない」と言われた。
ああ、コーヒーを飲めないのか、と理解した。代わりに水をあげた。200円のエビアンを。
数日後、彼女と食事をする機会があった。
食後に、「紅茶を飲む?」と聞いたら「いらない」と言った。コーヒーも飲めなくて、紅茶も飲めないのか、と思った。
「カフェインが飲めないの」と彼女は言う。
「それを知った友達がね、このあいだ、ルイボスティーをくれたの。ルイボスティーはカフェインが入ってないの。優しいでしょ」
と彼女はまくし立てた。僕は「コーヒー飲みたいな」と思いながら、うんうん、とうなずいた。
そして、こっそり携帯でルイボスを調べる。
ケープタウンの北にしか自生しないとか。いったこともない南アフリカ共和国の山間のルイボスを想像してみた。
二日酔いには効かなさそうな葉っぱだな、と思った。なんとなく。
でも「ルイボスティはカフェインが入ってない」という情報は覚えておこう。いつか、なんかのクイズで出るかもしれないし。
なんのクイズだよ、と自分で突っ込んだ。彼女は優しい友達の話を続けている。僕は「コーヒー飲みたいな」と思っている。
お酒を飲めないから
飲みが嫌いだった。
みんな酔っ払う。同じ話をする。シモネタばかりする。オチのない話をする。
皆は酒を飲む。僕は飲めない。
でもお金は割り勘。僕はみなのお酒の分まで払う。彼らの肝臓を壊すための支払いをしているようなものだ。
世の中に不平等というものがあるならば、それは、もはや男女の差ではない。その差は今は縮まり、それよりも、お酒を飲める人と飲めない人の差の方が大きいのではないか。もはや革命ではないか。酒飲めない人革命をすべきではないか。
そう僕はお酒が飲めない。だから、どうしてもいかないといけなくなった飲みの時は白けてしまう。
みながアルコールが入ってエンジンがかかりだした頃に、反比例するかのように僕の顔は白くなっていく。
つまらなさそうに話を聞き、携帯でツイッターを見る。つまらない話をしてるな、という顔で相手の顔を見る。
でも、今日、言われたのだ。昔からの友人との飲み会で。
「ヒデキって、飲みの時、ほんとにつまらなさそうにしてるよな」と。
確かに、僕はつまらない顔をしていただろう。なんなら、「僕はつまらない」という思いを他の人にも理解して欲しいほどだった気がする。
でも、その後に言われた言葉が僕の胸に刺さった。
「でも、みんなは楽しくない飲み会でも、楽しそうにしてるんだよ。お前は、それをサボってるだけだ」
僕はみなが楽しいと思っていた。お酒を飲んで楽しくなっていると思っていた。
でも、よく考えたら、お酒を飲んでも「つまらない」と思ってる人はいるんだ。でもその人たちも愛想笑いをして、酔っ払ったふりをして、何度も聞いた話を黙って笑って聞いているのだ。
そうだったんだ。僕は、自分だけが犠牲者だと思っていた。お酒を飲めない僕だけが取り残されていると思っていた。
でも、違った。僕は、サボっていただけなんだ。
僕はその言葉を帰り道で反芻する。僕は、酒を飲めないという言い訳で、飲みの席を楽しくする努力を10年以上サボっていた。
僕は、その事実を冷笑したかったけれど、うまく笑いの表情を作れなかった。
父の呪い
小学二年生頃のことだったように思う。
私はその年頃にふさわしく公園や街を駆け回っていた。いま思い返せばよく車などとの接触事故をしなかったな、と思うけれど、いずれにせよ駆け回っていたのだ。
そして案の定、怪我をした。あの頃の怪我なんて日常みたいなものだ。でもその時の怪我は普段の怪我よりも少し大きめの怪我で。
公園でつまずき、ガラスのようなもので足を切ってしまった。そして足から血が流れた。
僕にとってその怪我はなかなか大きな怪我で、特に流れる血が多かったから少し動転して。
慌てて家に帰った。その時は日曜日だったか、父が家にいて。その怪我を見た父は私に言った。
「そんな怪我たいしたことない。つばつけておけば治る」
それは父なりの優しさだったのかもしれない。気が動転して、慌てている私を不安にさせないための。
その後に母親が出てきてマキロンかなにかを塗ってくれて傷テープを貼ってくれた。
その父の言葉が私の中にすっと沈殿していて。私が怪我をした時はいつもこの言葉を思い出すようになってしまった。
- そんな傷、大したことはない
なんだか父に揶揄されたようなこの言葉で、私は自分の怪我や傷が大したことないんだ、と思い込むようになった。
だから、この何年後に、やけどをした時も慌てず自分で治療をしたし、自転車でコケた時も「こけちゃった」と気丈に笑っていたように思う。
それは呪いのようでもあり、また救いのジンクスのようでもあった。
私が仕事に失敗した時や恋愛で失恋した時も、心の奥からこの言葉は現れて。そして、父はこういうのだ。「そんなもん大したことない。つばをつけておけば治る」と。そして、私はその言葉に呪われながら、救われながら、その痛みを我慢し続けていきてきた。
でも、流石に、こうやって父がなくなった時は「たいしたことない。つばをつけておけば治る」とは思えなくて。
私は、つばをつけても治らない空白を感じ、号泣をした。
退職の予兆
役職者にとって、社員が退職する予兆を見つけることは大事だ。
「辞める」と辞表がでた時には、もう遅い。その時には、その人の決意が固まってるから。だから、そうなる前に、ケアをすることが大事で。だから、「やめそう」と思ったら、面談を入れて悩みを聞いたり、面白い仕事をあてたり、給与を上げたりする。
その予兆の1つが「全社イベントに参加しないこと」だと聞いた。
たとえば、全社納会や月次の締め会といった飲み会や交流会に参加しなくなる。そうなったら、その人は辞める直前だと思っていい。
結婚生活も同じだ。
急に帰りが遅くなれば浮気を疑った方が良い。ワイシャツにしらない香水の匂いがついていれば怪しんだ方がいい。今までなかった出張が増えたら、もう浮気だ。
そんなの今から考えれば、予兆ってわかったはずなのに、どうして私は気づかなかったのだろう。
- 女は気づかない。予兆に気づかなかったというのは、女が他のことに夢中になっていたからだ。他の男に夢中になっていたからだ。
- 彼がその予兆に先に気づいていたことも、女は気づかない。
- 退職を考えている人は自分の部下の退職の予兆に気づかないように。
テーブルを埋め尽くす飯
「テーブルの上に隙間なく料理を敷き詰めろ」というのが、いつもの男の指示だった。
日本最大手の代理店のエースである彼は、接待にも全力を尽くした。その1つがテーブルを埋め尽くす料理の準備だった。
「この前菜とこのメイン3種類と、この肉に、このチーズと、このオリーブと」と、テキパキの彼はメニューをオーダーし、きれいにテーブルの上に料理を敷き詰める。
それは圧巻で、接待される側は驚くとともに、そのテーブルは印象に残る。松川の蟹をごちそうになるよりも印象に残るだろう。何より「テーブル一杯の料理」というのは、無意識にテンションがあがるのだ。美味しいところだけを摘んで食べるという子供の頃が今、叶うのだから。
だから、彼は接待する時は、必ずテーブルを食事で満席にした。和食でも、中華でも、焼肉でも。フレンチのようなコースの時は順番があるから、なかなかフルにすることはできないが、それでも彼はワインボトルやパンを駆使してテーブルを埋め尽くした。
しかし、ある時に気難しいクライアントの接待があった。もともとエースは会席料理を予約していた。しかし、直前にクライアントは「寿司を食べたい」といい出したのだ。
すぐにエースは、予約を切り替える。寿司を予約する。しかし、問題は寿司屋の予約ではなく、寿司のテーブルを埋め尽くすことだった。
寿司をテーブルに並べてしまったら、せっかくの鮮度の良い魚がカピカピになってしまう。さすがにガリやお茶でテーブルを満席にすることはできないだろう。
だから、エースは今まで寿司屋での接待は避けてきた。「テーブル満杯の飯」という歓待ができないからだ。
エースは悩んだ。どうしたら良いだろう。
そして、ひらめく。寿司を置く木のまな板のようなもの、いわゆるゲタ。これこそが寿司のテーブルなのだ。寿司のテーブルはカウンターじゃない。まな板だけの上だけが寿司のテーブルなのだ。
そうして、エースはゲタの上にイカ、エンガワ、マグロ、カンパチ、ウニとたっぷりの寿司を並べた。
なお、そんな一休さんのトンチのようなひねりもむなしく、その接待の案件は失注した。
世の中というものはそんなものだ。
S字クランク
教習所は出会いの場所といわれるけれど、まさか自分が恋に落ちると思っていなかった。
筆記の授業で何回か同じクラスになり、「かわいい子だな」と思っていただけだった。まさか自分からその子に話しかけられるなんて。
それは、実車練習の待合ベンチで座っていた時だった。横に座った女性。ぱっと横を見ると彼女だった。
僕は話しかけたくても、何を話しかければいいかなんてわからない。新歓だったら「サークルなに入ってる?」だけど、こんな時は、何ていえばいいんだ。「なんで免許とろうと思ったんですか」とか?おかしいだろ。なんの面接だ。
そうドギマギしていると、彼女がこういった。
「S字クランクが苦手でなんですけど、どうしたらいいですかね」
S字クランクとは、名前の通り、S字の道路を通る練習で、仮免を取るためには避けて通れない。苦手な人も多い。
僕は嬉しくなって、たくさんの解説をした。だって、僕だって心配だったから事前にたくさん調べていたんだ。
それから僕達は仲良くなった。授業が合うと隣に座り、時には、一緒にランチを食べ、授業の時間をあわせることもあった。
そして、とうとう仮免の試験の日をむかえる。ドキドキしていたあのS字クランクが待っている。
僕は勇気を出して言う。「もし、僕が一発で仮免受かったら、お祝いにご飯をごちそうしてよ」と言った。
はじめてのデートの誘いだった。こんな風にしか誘えない気の弱さを嘆くけど。
「いいよ。ハンバーガー食べに行きましょう」と、彼女は言ってくれた。僕はそれだけで有頂天になったのだけれど。
とはいえ、まだ試験は合格していない。有頂天になるにはまだ早い。
挑む仮免試験。普段よりも手に汗を握る。試験というだけで緊張するのにデートの誘いまでかかってるなんて。坂道発進をしながら、「こんな誘い方するんじゃなかった」と、何度も後悔した。せめて「筆記試験で合格したら」にすればよかった。
そして、運命のS字クランクにかかった。
頭からS字にはいる。いつもよりも狭い気がする。いつもよりもスピードを落とす。慎重に、慎重に。
最初のSの頭の部分を曲がる。「C字クランクだったら良かったのに」と思いながら、Sの後半部分にさしかかる。
その時だった、エンジンがストン、と止まった。慎重になりすぎてギアチェンジまで意識がいかなかった。エンストだった。
不合格だった。
僕はそこから記憶はあまりない。気づけば、待合室に僕と彼女はいた。
彼女は「上手だったよ」と言ってくれた。そしてコーヒーをくれた。
僕は、何も言えなかった。デートを自らふいにしてしまった。
僕からももう誘えない。自分の提案は自分のミスで失敗してしまったのだから。
なんてことをしてしまったんだ、と僕は自分の右足を攻めた。なぜあの時にクラッチを踏まなかったんだ。
そして、うなだれる僕に彼女は言った。
「じゃあ、私が仮免試験に合格したら祝ってよ」。