鬱じゃない人はおかしい人?
「「抗うつ剤を飲むと根拠のない自信が湧いてくる。つまり、正常な人は根拠のない自信が常に満ち溢れている」という事実」という記事を興味深く読んだ。
そこでも紹介されているのが、「鬱の人の方が現実を正しく認識している」という研究結果だ。それの真偽はともかくとして、概念としては理解できる。
つまり「世の中を正しく分析すると鬱にならざるを得ない」というものだ。
それを文学的な表現で修飾してしまうと、つまりはこうだ。
日本は従来に比べて産業で世界で誇れるものは少なくなっている。さらに少子化がおいうちをかけるように日本の存在感をなくす。今までの経済成長は期待できず、日本の景気は下り坂になることは避けられない。
はたまたミクロの社会に目を落としてみても、昔みたいな地域のつながりもなくなり、学歴も確固たる拠り所ではない。会社も終身雇用ではなく守ってくれる存在ではなくなった。結婚や恋愛をする者も少なくなる。そうして人はどんどん孤独に、孤立していく。
そんな現実を「正しく理解」すると、まともな心境ではいられない。ふさぎ込んでしまうのも無理からぬだろう。逃げたくなるのも正しい世の中への評価だろう。
そう考えると、鬱じゃない人の方がおかしいという見方もできる。
こんな不確実で不安定な世の中なのに、年末だからとて楽しくお酒を飲めるのは「未来のことを考える能力が欠如している」、ないし「世の中のリスク(不確実性)を正しく評価できる能力が足りていない」と考えることもできる。
そんな時に思い出すのは、幸福論を書いたアラン氏の以下の箴言である。
悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである
つまり、人間は、ほっておくと常に悲観になる。
こんな大変な世の中では、誰もが悲観になり、そして鬱になる。それが自然であり、普通のあり方なのだ。
ただし、神は人間に「意思」という能力を与え給うた。つまり、ほっておけば「悲観」や「鬱」になることに対して、意思を持って「楽観的に社会を見る」ということができる。
そこが人間の面白さだろう。論理的に物事を考えると、悲観にならざるを得ない。しかし、それを楽観に捉える能力を持っている。その能力がなければ人間は前に進めないからだ。
そう考えると、この悲しい現実を目にしてまともな人たちは「おかしい人」たちか「意思に溢れた人」たちなのかもしれない。